第30話 突き動かされて

 気味の悪い、肉を突き刺す感覚が広がる。



 短剣を握りしめた腕から伝わる悪寒が。


 エストリーゼの意識を徐々に正気へと戻していく。



 視界に入ってきたのはまっ赤な血溜ちだまり


 あまりの衝撃に叫ぶ声も塞き止められ、ただただがくがくと身体を震わせる。



 エストリーゼの行動は自分の意志ではなかった。


 身体が勝手に動いていたのだ。



 まるで誰かに突き動かされているかのように。



 その事実が恐ろしくて、瞬きも忘れたまま血の滴る腕を見つめ続ける。


 短剣は、およそ刃の半分が肉に食い込んでいた。



 エストリーゼではなく、アポロンの腕に。



「気をつけた方がいい。君は人間なのだよ」



 アポロンはめずらしく真剣な眼差しで咎めた。


 緊張した指をひとつひとつ解きほぐし、短剣からエストリーゼの腕を放させていく。



 力が抜けた手から、べったりと血に染まった剣がゆっくり離れていった。



「お兄様。わざわざ恩を売るようなことをおっしゃっていないで、ご自分の腕を早くお治しになったらいかが? お姉様が怖がっています。震えてしまって可哀想ですわ」



 深々と短剣が突き刺さる部分を見ても、アフロディーテは一言も労る言葉をかけない。



「冷たい妹を持って、私もつくづく不幸な男だよ」



 苦痛の表情をしながらも不満を垂れる。


 そして何の前触れもなく、アポロンは一気に短剣を引き抜いた。



 凄まじい血飛沫があがり、彼の纏う白い貫頭衣を真っ赤に染めていく。


 肉が抉れた部分からドクドクと溢れた血液が、庭園の噴水を囲む大理石に降り注ぐ。



 しかし、それは数瞬だけで。


 途端に勢いをなくした傷口の出血がみるみる止まっていく。



 瞬きをする間にも、傷は浅く小さくなって消えていく。


 不死である神の身体が、人知を超えた治癒力で深い傷を塞いでいくのだ。



 けれど。


 あと少しで完治というところで、回復は滞ってしまった。



 アポロンの端正な腕には赤い線が残っている。



「なるほどね……そういうことか。継承が完了する前で助かったよ」



 舌打ちすると、アポロンは袖から一枚の布を取り出して残ってしまった傷へと当てる。


 彼の優雅な姿に、人間が使うそれはあまりにも奇妙な違和感を放っていた。


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