第29話 兄弟喧嘩

「アテナを慕う君の気持ちは分かるけど、彼女は『継承者』であって君の愛する『アテナ』ではないんだよ?」



 アポロンはアフロディーテの怒りがお門違いだと説いた。



 薄笑いを浮かべる彼は、妹である彼女との言い争いも、もとより短剣を投げつけられたこと自体をも楽しんでいるようだ。


 対して、アフロディーテも心底呆れたように応える。



「ほとほと了見の狭い男ですわね! 女神の継承などとめったにない事象を目の当たりにして、お兄様は愉快ではないのですか? 毎日毎日こんなにも退屈な日々の中で、絶好のスパイスともいえる存在だというのに」


「ああ、そういう意味? それには同感だけど……私はてっきり背徳的な感情なのかと思ってしまったんだよ。君のアテナに寄せる想いは普通じゃなかっただろう?」



 嫌味たっぷりに端正な顔を歪ませるアポロン。


 そんな彼に向かって、アフロディーテは余裕の笑みで応える。



「あら、背徳という意味ではお兄様には敵いませんわ。この間までは可愛らしい少年、その前は屈強な男をたらし込んでいらしたでしょう?」


「さあ、どうだったかな?」


「おとぼけになっても無駄ですわ。お兄様ったら常に手を替え品を替え、刺激を求めて邁進していらっしゃるんですもの。わたくしの背徳など些細な擦り傷程度。到底、お兄様の足元にも及びませんわ」


「そう、よく分かってるね。だから今も私は刺激を求めて邁進してるところなんだよ?」



 アポロンは、まったくもって後ろめたいことなど何ひとつないといった堂々とした態度を返す。



「それは他の女性でなさってくださいませ。つまらない精霊の女など吐いて捨てるほどいるではありませんか。お姉様はわたくしだけのもの。こんな塵レベルの結界など壊して、お姉様をわたくしの神殿へお迎えしたいと思っておりますのよ。いくらくびきの戒めが超一流だとしても、貧弱な結界の方を壊してしまえば効果ありませんし。おほほほほ」



 可憐な細い腕を口元に当て。


 声高々に笑声を響かせるアフロディーテ。



「まぁ――その通りなんだけどね。だけど、それでは彼女が満足しないんだよ? 彼女の願いを叶えられるのはこの私だけなのだからね」



 してやったり、というアポロンの表情に、アフロディーテはここへきて初めて敗北を悟り頬を膨らませた。



 愛と美の女神とて、人の世界に蔓延はびこった病を治す術は知らないのだ。


 それがティターン神族の毒に由来するものであれば尚更のこと。



 一方、エストリーゼの意識は空気に混ざる何かを感じていた。


 二人の会話に動じることもなく、噴水の縁に突き刺さった短剣を凝視している。



 血の匂い。



 アフロディーテがアレスから奪ってきたという短剣には、何かを殺傷させた過去があったのだろうか。


 短剣に残る微かな血臭はエストリーゼの感覚を鋭くさせ、内に眠る何かを呼び覚まそうと働きかける。



 やがてその瞳に鈍い光が宿り、黒い瞳孔が大きく見開いた。



 ――かなくては、あのお方のもとへ。



 瞬間。



 鋭い矢のように頭を駆け抜けていったのは、誰の想いだったのか。


 徐に近くの短剣を引き抜くと、エストリーゼは空へと高く掲げた。



 降り注ぐ陽光がギラリと短剣の刃に反射する。


 そして次の瞬間。



 自分の左腕を切り落さんと、力一杯振り下ろしていた。


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