第二章 アテナ継承

第8話 三年前のあの日

 ――湖に、偉大な女神がお堕ちになる。


 ――だが決して近づいてはならぬ。


 ――さもなくば、神の呪いによる災いがこの村を襲うだろう。




 三年前のあの日。


 齢百二十を超える村のうらないババがそう予言した。



 神と人間が同じ時空に在り、たった一枚の薄い<神膜しんまく>にて次元を僅かに別たれているだけの、そんな時代。



 人界への干渉などものともせず、神がほんの気まぐれを起こせば、その心ひとつで人間など全て滅ぼしてしまう。


 そんな心許ない世界の片隅で。



 鬱蒼と草木が茂る夜道を、月明かりを頼りに、ひとりの少女が全力で駆けていた。


 まだ十四歳。



 頬にあどけなさを残したエストリーゼ・ラリス。


 両親譲りの黒目、黒髪、透き通る白い肌。



 それらはまるで夜の精霊のように神秘的だった。


 しかし彼女の最大の魅力は〈声〉。



 一度その声を耳にしたならば。


 天上に座す天使も神々さえも羨み、耳にする者全ての心を溶かしてしまうだろう。



 そんな誰よりも透き通った美しい歌声を持つ可憐な少女が、しかし今、喉も枯れよと言わんばかりに息を切らせ暗い山の中をひたすら走っている。


 月明かりだけを頼りに、少女は深い森の奥にあるという湖を目指していた。



 家族も村のみんなも全員反対した。


 うらないババの予言は外れたことがない。



 逆らえば、このドリピス村にどのような神の戒めが下るかわからない――と。



 エストリーゼの頭には母の膝上に座った妹タミアの姿が浮かんでいた。


 腕や顔に散らばる黒い斑点。


 それは最近この村で流行りだした病の兆し。



 毎日少しずつ広がってゆき、最後にはその命を奪ってしまう黒死の病だ。


 近郊の村には恐ろしい魔物が現れ、人を襲いはじめたと聞く。



 妹を、村のみんなを助けて欲しい。


 神界から女神が降臨なされたというならば、自分たちが彼女に願いを伝えて何が悪いのか。



 目前の木々の向こうにキラリ。


 月光を受け輝いている湖面が見えてきた。



 誰も近寄らない深い森の中、静かに佇む湖がある。



 コパイス湖――。



 その昔、ティターン神族が誤って人界に落ちたとき、片足を着いてしまった足跡にできた湖だと伝えられている。


 ティターン神族はもともと巨神族であり、中には体が山のように大きい者がいるという。



 そして今も神膜しんまくの向こうでは、未だ神々の戦争が続いているのだ。


 苦しい息を押し殺し、エストリーゼは目的の湖に辿り着いた。


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