第5話 氷のような指揮者《マエストロ》

 長い足の歩幅を利かせ、男はエストリーゼの前に颯爽と進み出る。



「逃げないのかい?」



 くすくすと嘲笑うかのように男が促す。


 巨人がすぐ後ろに迫っているのを感じながらもエストリーゼは動かない。



「もしかして……怒っていたりするのかな?」


「……」



 まるで虫けらを見るかのように自分を嘲る男に、エストリーゼは黙ったままぐっと鋭い視線を投げる。



「ふうん。そんな態度を取られてもねぇ。私は君に何も約束していないわけだし」



 しれっと男はそう言って、見事な白銀髪を搔き上げた。



(そう……)



 確かにその通り。


 彼と会ったのは今が初めてで……彼には何の咎もない。



 けれど、けれど。



 彼を待つこの三年間が長すぎて。


 声にならない想いが喉の奥に詰まって、少しの声も発せられない。



 目の端に涙を浮かべ、爪が食い込むほど拳に力を入れて睨みつけるエストリーゼを、男は鼻で笑ってみせる。


 まったくもって会話にならない状況に、彼は明らかに苛立ちを募らせているようだった。



滑稽こっけいだな。君って――今の状況を理解しているのかい?」



 グラリ。


 舞台が不吉に揺れる。



 パイプオルガンから生まれ出たキュクロプスが地を揺らし、二人のもとに近づいてくる気配がした。


 大きな一つ目は迷いなくエストリーゼの姿を映していた。



 怪物が巨大な腕を振りかざす。


 取るに足りない小さな人間の少女など一思いに潰さんと、渾身の勢いで拳を振り下ろした。



 と同時に、男が指揮棒タクトを掲げた。


 ガツンッ。


 鈍い音をたて、キュクロプスの手が跳ね返る。



 白銀髪の男が、咄嗟にエストリーゼと自分の周りに透明な障壁を造り、巨人の攻撃を防いだのだ。


 巨人はその反動で大きく仰け反り、客席を薙ぎ倒して轟音と共に突っ伏した。



「どうして……」



 もっと叫んでしまいたいのに、エストリーゼの喉からは蚊の鳴くような掠れた声しかでない。



 それを高慢な態度と受け取ったのか。


 美しい青年は頗る苛立ったように、あからさまに嫌な顔を示していた。


 黄金の双眸を細め、エストリーゼに向けて一際蔑むような眼差しを注ぐ。



「人間ごとき今の君が、まさかこの私に命令でもしようというのかい?」



 はんっと鼻で笑うと。



「別にいいのだよ? 君がこの醜い巨人に叩きつぶされようとも、何の情動も生じはしない」



 そう吐露する。


 そして、男は手に持つ指揮棒タクトを横に振った。


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