4-5
「はあ……でも随分と昔の話ですから」
普段過去に触れられたくないと思っている弘蔵は、幾ら社長と言えどいい渋るものがあった。
「わかった。弘さんの話の前に、景気づけに焼酎を一杯飲もう。話はそれからにしよう」
江端はカミさんにいって、焼酎のボトルを持って来させた。
江端は弘蔵の嗜好を訊いてから、まめやかに焼酎の水割りを拵えはじめる。
弘蔵は恐縮したまま凝っとグラスに目を据えている。
「弘さん、遠慮しないで好きなだけやっていいから」
弘蔵はすでにグラスを口元に持って行っていたので、頭を下げるようにして応えた。
「さあ、聞かしてもらおうか、弘さんの色っぽい話を」
「そんな、社長が期待するほど面白くないかもしれませんよ」
「いいんだよ、弘さんの話だったら何でも愉しくきくからさ」
江端は持ち上げるように言った。
「そうですか? それじゃあ……」
弘蔵は観念したように話しはじめた。
「――私は工業高校を卒業してすぐに東京に出て来ました。
都会を夢見て出て来たんですけど、世の中はそれほど優しくはありませんでした。
いろんな仕事に挑戦してみたんですが、どれも長続きしませんでした。
我慢が足りないといわれればその通りかもしれませんが、自分としては妥協したくなかったんです。そんな中でやっと自分に合っていると思ったのがこの仕事でした。
躰をつかうことはけして嫌ではなく、むしろ愉しく思うくらいでした。
そんな仕事に巡り会った私は、一生懸命に働きました。
社長を前にしてこんなことを言うのもなんですが、中小企業で働く肉体労働というのは、大企業と違って、下積みが長いのが事実です。
若いときはそれでもいいのですが、やはりある程度の歳になってくると躰に堪えるものです。そんな芯からの疲れを癒すのに酒の味を覚え、知らず知らずのうちに酒に頼るようになってました。
三十を超えたぐらいのそんなある日でした。いつも顔を出していた居酒屋の手伝いをしていた女性が、店が暇だったこともあったのですが、傍に来て私に打ち明けたのです、自分の気持を……」
「好きだって、言ったんだね?」
「ええ。私は思いも寄らぬ打ち明け話にどうしたらいいのかわからなくなってしまいました。それからしばらく私はその店に行くことができませんでした。
彼女は私とそれほど歳は違わなかったのですが、すでに所帯を持っていました。
別に彼女のことが嫌いだったわけではなかったのですが、結婚している女性にそう言われても
どうしたらいいのかまったく見当がつきませんでした。
でもあまり顔を出さないのも彼女にわるいと思って、しばらくして顔を出したところ、彼女は私が
来るのを首を長くして待っていたのです。
そんな凝っと耐える彼女がいとおしく思えてきて、とうとう……」
「で、その彼女とは、行くとこまで行ったんだね?」
「ええ、でもそれはたった一度だけのことです」
「一度だけ?」
「そうです。それがあったあとすぐと彼女は店を辞め、以後はまったく音信不通といった状態で……」
「でも弘さん、それも何かロマンチックな話だね。でもね、その姿をくらませてしまった彼女にとっては、弘さんに抱かれたことがいつまで経っても忘れることのできない想い出となって、心の片隅に息づいていることだろうよ」
「そうでしょうか」
「そうに決まってるさ」
江端は弘蔵のもっといろんな話を聞き出したかったのだが、いきなりの恋話に胸がつまされ、それ以外のことを聞く気が削がれてしまった。
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