第2話 英雄

 求めようと 心が決めたならば

 答えはひっそりと

 でも確かな足取りで近づいてくる


 雪解けが冬の終わりを告げるように

 鳥のさえずりが夜の帳をやぶるように


 その足取りは

 心が求める事をやめない限り

 歩みをとめないだろう──


 太陽が地平線の彼方で大きな背伸びをして、朝を告げた。

 王子は太陽が顔を出すと同時に、ベッドから飛び起きた。

 起きて間もないというのに、王子の目はキラキラと輝きを放っていた。その輝きは朝一番の太陽の輝きに似ていた。


 実は昨晩、王子はベッドの中で「答え」を教えてくれるかもしれない、良い先生を思いついたのだ。

 彼ならきっと知っているはずだ──


 今までの経験で父親や大臣たち、学者たちが答えを教えてくれない事は分かっていた。それは王子自身が「何に対する答え」を求めているのか、自分でもよく分かっていなかったからかもしれない。または、それがはっきりいていても、やっぱり教えてくれなかったのかもしれない。


 でも、自分でも良く分からない胸のモヤモヤは、日に日に大きくなるばかりだった。王子にはこの事実が重要であり、この事実が王子を動かした。

 このモヤモヤが晴れないままに「宣言の日」を迎えてしまったら……

 考えただけで空がどんな晴天であろうと、心は嵐のように乱されてしまう。

 早く答えを聞きに行こう──

 王子は小さな拳をギュッと握りしめて、心の雲を掻き分けると、生まれてはじめて城を抜け出す覚悟を決めた。


 慎重に廊下を進み、音を立てないように階段を何段も下ると、そこはだだっぴろい城の玄関になっている。

 素材は分からないが、おそらく最高級の糸で紡がれたであろう長い赤茶色の絨毯、階段の隣には白く艶々とした石で彫られた勇者の彫刻、そして壁に飾られた、今にも額縁を破って飛び出してきそうな荒々しい馬の絵画──

 玄関はとても大きく、鉄で出来た頑丈な扉で閉ざされていて、誰の侵入も許さないという威厳に満ちている。

 扉を開けて一歩、外の世界に踏み出してしまったら、二度と中に戻って来れないんじゃないだろうか──

 鉄の扉のひんやりとした冷たさが、王子を一瞬たじろがせたが、堂々と立っている勇者の彫刻を見て気を取り直した。それから、これは冒険なのだ、と自分に言い聞かせた。

 そして、身の丈以上もある扉を全身の力をかけて大きく開くと、丁寧に城の門まで伸びている綺麗に舗装された道を、身をかがめながらぐいぐいと進んだ。


 城門には一晩中見張りをして、寝ぼけ眼になっている門番がいた。門番は遠くの一点を見つめていて、少しも動かない。

 簡単に門からは出られないだろうと思っていたが、今日に限ってはそうでもなさそうである。どうやら運命も王子の決意を喜んでいるようだ。ポカポカとした太陽の暖かさもきっと王子の強い味方なのだ。


 王子は、門番の隙を狙って門を抜け、城壁にそって門番の目が届かないところまで急いだ。

 そして、気づかれていない事を確認すると、一目散に城下町へと駆け出した。まだ人気のない城下町を、後ろを振り返る事もなくひたすら走った。

 風はいつもこんな気分なんだろうか──

 こんなに気持ちがいいものならば、もっと前に抜け出してみるんだった──

 王子は決断に満足していた。目指すのは町の外れのレンガ造りの質素な一軒家。

「英雄ゴトー」の住む家である。


 王子はゴトーに何度か会った事がある。

 昔、彼は国の兵士の隊長をしていた。今も彼が国の兵士である事に変わりはないのだが、誰の目から見ても、明らかに彼と他の兵士たちとは様子が違った。

他の兵士たちは持ち場を決めて、城や町の警備に当たっている。門を見る者はいつも門にいるし、城を巡回するものはいつも城を巡回している。


 しかし、彼に決まった持ち場はない。もしかすると国全体が彼の持ち場なのだろうか?


 他の兵士たちは町の西側にそびえたち正確に時間を刻む、大時計を見て動く。

 しかし彼は、太陽と月の動きを見て動く。

 彼ともあろう者が時計の読み方を知らないわけはないのに──


 そして彼はどれだけまわりから信頼を勝ち取っても、いま以上を求めない。 

 彼ほど慕われている人間ならば、大臣になる事もできたかもしれないのに─ 

 王子はとても不思議だった。


 兵士の一番の出世は兵士として功績をあげて、政治に口を出せる立場を持つことだ。つまりはこれが、「兵士」が「貴族」のように偉くなる一番確かな方法なのである。


 色々な人の話を聞く限りでは、英雄ゴトーほど活躍した兵士は他に誰もいない。という事はやはり、彼には大臣になる資格があると言える。

 でも彼は今も昔も、決して大臣を目指そうとはしない。

 会ったら最初にこうたずねてみよう。

「なぜ大臣にならないの? 」

 みなが偉くなる事や、お金持ちになる事に躍起になっているのに、彼がそれを望まないのには何か大きな理由があるからだろう。そして、その理由は王子が探している答えと繋がっているのかもしれない。確信があったわけではないが、王子にはそう思えてならなかった。


 しかし、王子は少しだけ不安だった。実はゴトーとは一度も言葉を交わした事がないのだ。

 彼が城を訪れるのは、年に一度か二度。兵士の稽古をつけに来るときだけだ。その度に王子は、稽古の様子を遠くから何度も眺めている。

 彼が来るたびに眺めている。

 おそらく、今までに十回以上は見ただろう。

 しかし、人々から聞いた彼の伝説を思うと、どうしても緊張してしまい近づいて話しかける事ができなかった。

 おそらく彼は、僕の事を知らないんじゃないだろうか──しかし


 僕は彼の声を知っている。

 猛獣のような荒々しさと、鳥の歌のような優しさが同居した声だ。

 彼の動きを知っている。

 狼のように素早いのに、象のようにズッシリとした足取りだ。

 彼の目を知っている。

 それは鷹の目だ。どこを見ているか誰にも悟られずに、全てを見通している。

 彼の顔つき、体つきを知っている。

 熊のような屈強さを持っているのに、母鹿みたいに柔和にも見える。

 そして彼の多くの伝説を知っている。

 一つはこんな伝説だ。


 数十年前のこと「山の国」の土地は日照りが続き、「海の国」の海ではおおしけが続いた。

 人も動物も飢えてしまった。


 その時期に、農民と商人の多くは一時的に狩人になった。作物がないので 動物を殺して食料にするしかなかったからだ。

 飢えた人々は多くの動物を殺した。

 毎日のように狩が続き、動物が殺されない日はなかった。

 そんなある日、動物たちの怒りが頂点に達した。

 きっと、動物たちは人々を懲らしめる会議をしたに違いない。

 とにかく怒りをあらわにした動物たちは、町の柵を越えて侵入し町中で暴れまわった。


 先陣をきった王者ライオン、それに追従した狼にトラ

 穏やかさを忘れた象にキリン

 森を代表してクマ

 空を代表してワシ

 森の番人を任されるフクロウさえも、戦いに参加した。


 しかし、ゴトーはたやすくこの混乱を鎮めた。


 ライオンたちの牙には剣で対抗した。

 誰もが猛獣に恐怖を持っていた。しかし、恐怖を感じた時点で、その人間はもう負けているのだ。心は既に、来た道を引き返そうとしているのだから──

 比べて彼は、恐怖を全て投げ捨てていた。だから彼は勝てたのだ。


 象やキリンは、彼の魔法のような言葉と仕草でなだめられた。

 本来の穏やかさを思い出させる方法を、彼は知っていたのだ。

 同じように、熊には森を思い出させ、鷹には空を思い出させた。

 森の木々の我慢強さを、そして空の自由の尊さを──

 そして、この時に多くの人を守るために、彼は町の全てを見通す必要があった。

 この時、彼は鷹の目を手に入れた。

 それ以来、彼はどこにいても町の全てを見通している、と言われている。


 また、彼にはこんな別の伝説もある。

「山の国」と「海の国」の間に、鉱物の金を巡って争いが起きた時代。

 国の間に蛇のように大地を這う、石の壁が張り巡らされた。

 人々は離れ離れになり、商人は行き場を失った。兵士は常に戦いに備え、重々しい鎧を着てそこら中を徘徊した。

 兵士が歩くたびに町の色は黒に近づいた。

 この悲しい争いに終止符をうったのも、実はゴトーだと言う。


 石の壁を挟んで睨み合っていた両国の兵士。壁を越えるなんて馬鹿げたことは、だれも考えたりしなかった。

 しかしゴトーは堂々と壁を越えると、こう高々と宣言した。

「必要のないものは壊してしまおう! このままでは、皆の心までも壁で隔たれてしまうぞ! 」

 そして、彼はどこからか運んできた、身の丈ほどもある大きな金槌を振り回し、一人で石の壁を壊し始めた。

 彼を止めようと、矢を放つ兵士もいたが、彼には一本も矢が当たらなかったそうだ。

 風が、彼の味方をしたのだろう。

 風はいつも彼の味方だ。

 そのうち、一人の兵士が彼の真似をして壁を壊しはじめた。

 そして、太陽が少し顔を傾けると、別の兵士もそれにならった。

 太陽が地平線を抱き、月が暗闇に薄明かりを灯すころ──

 その場にいた兵士の皆が、「山」と「海」の区別なく壁を壊していた。

 こうして、「山の国」と「海の国」の戦争は回避された。


 人々に「英雄」と言われているから彼は英雄なのではなく、彼は本当の意味で英雄なのだ。

 王子はそう思った。


 そうこう考えているうちに、王子は町外れにあるゴトーの家の前まで来ていた。

 背の低い茶色い塀の先にある、ところどころ色がはげたレンガ造りの一軒家。質素だが、手をかけられた庭を見るだけで丁寧に管理されている事が分かる。

 王子は玄関の前にたたずむ小さな石段を、一歩一歩、踏みしめながら登り、こげ茶色のドアの前に立った。

 それから大きく息を吸い込んで、手の汗を洋服で丁寧に拭いてから、ドアを二回ノックした。


 どのくらい待っただろうか──

 本当はほんの数秒だったのだろうが、それは永遠のようにも感じられた。

 ドアがギーッと音を立てて開くと、反対側のドアノブを力強く握る大きな手が見えた。

 次にたくましい腕が見え、ついには屈強な身体全体が現れた。


 まさしく王子の目の前に立っているのは、英雄だった。


 こんな間近で彼の姿を見るのははじめてだ。嬉しさと緊張で、全身がウネウネと脈打った。川で突然、激流に飲み込まれてしまったようなそんな感覚に近い。しかしその激流は王子を決して傷つけず、違う岸まで運んでくれる安心感を持っていた。

 一方、英雄は王子を見ると時間を置かずに口を開いた。

「なんと、王子ではありませんか! 」

 その表情には驚きが見えたが、すぐに彼の顔はくったくのない笑顔に変わった。

 年輪のように刻まれたシワを見て、王子の不安や緊張はどこかに消えてしまった。きっと、さっきの激流が飲み込んでくれたにちがいない。

 そして、王子は彼の顔をじっくりと見つめると、思った。

 彼はこのシワの数だけ、伝説を持っているのであろうか──

  木の年輪にも大きいものと小さいものがあるように、大きなシワには大きな伝説が、目じりに浮かぶ小さなシワにもそれに見合った伝説が──

 そう考えているうちに、王子は嬉しくなった。

「どうしても相談したい事があってきました」

 王子は単刀直入に言った。

 ごかましても、彼の目に見透かされてしまう、そんな気がしたからだ。

「王子から相談とは光栄なことです。しかし、私は今から広場にて剣の稽古をしなければなりません。ご無礼とは思いますが、そちらでお話を聞いてもよろしいかな? 」

 ゴトーが毎朝、広場で稽古をしているのは国のみんなが知っている事だった。それは彼にとって朝の巡回を意味しているのかもしれないし、特に意味のない日課なのかもしれない。

 そんな事より、英雄の朝稽古に付き添えるとは光栄である。話をするのはどこでもいい、とにかく王子は早く話がしたかった。

 ゴトーは部屋の壁に立てかけてあった木製の剣を手に取ると、丈夫そうな白い布を鞘のようにして剣を包み、大きな伸びをして王子の肩をポンと叩いて言った。

「さぁ王子、出発です! 」


 広場までの道中、王子はゴトーの様子を細かく観察した。

 彼がどこを見ているのか、何を感じているのか──

 表情や仕草から何か分かる事はないか──

 しかし、いくら目を凝らしても彼の動きに特別なところはなかった。

 家を出ると太陽の光を浴びて、もう一度大きな伸びをして、優しく肌をなでる風に身を任せ、満足げな顔をして歩みを進めるだけだった。

 時折、王子の顔に目をやっては冗談を言って笑っていたけれど、ごくごく自然だった。

 その自然さが、他の人と比べて特別だったかもしれないが、一般的に言う「特別」な事はなにひとつしていなかった。


 そうこうしているうちに、二人は広場に到着した。

 真ん中に丸い形をした噴水があり、道と広場の境を示す部分には、白い石が円形に敷き詰めてある。ところどころに、大きな石を加工して作ったであろう腰掛があり、また、ところどころに小さな植物が植えられている。

 朝の陽を浴びた噴水の水は、輝きながらキラキラと流れ、朝鳥のさえずりは心地よい音符を空に描いている。

 王子は朝の広場がこんなにもすがすがしいものなのか、と感動した。

 こんなに気分が良い場所なんだから、みんなも来るべきだ──

 そう思い、広場に「みんなの庭」と一人で名前をつけた。


 ゴトーは噴水の周りに作られた石の環に剣を置くと、布をサッと剣から抜き去り、埃を払うと噴水の環に布をかぶせて丁寧にそちらに手を向けて言った。

「王子、こちらにお掛け下さい」

 いかにも戦士のように見えるゴトーが、貴族のような上品な振る舞いをするので王子は少しおかしかった。しかし、言われた通りにチョコンと布の上に腰を下ろした。

ゴトーは、王子が腰を下ろした隣に腰掛けた

「さて、王子のお話をお聞きしましょう」

 彼はまっすぐに目を向けて言った。まるで矢に打たれたような気持ちになり、王子は慌てて話し始めた。

「相談したい話って言うのは、実は今度の宣言式のことなんです」

 王子もまっすぐに言い返した。

「王子ももうそんな年齢になったのですね。宣言式の事で何か悩みでもあるのですか? 」

彼は優しく問い返した。

「悩みというか……自分でも良く分からないんです」

「ほう、自分でもわからない? 」

「とにかく、僕が将来、本当に王様になっていいものなのか、ひっかかるんです」

「なるほど、それで王子は私に聞けば何か分かるんじゃあないかと、そう思ったわけですね? 」

 ゴトーはゆったりとした口調で聞いた。


「僕は小さな頃から貴方の伝説を、色々と聞いています。どうして王様になっていいか悩んでいるのか……僕も正直、良く分からないけれど……貴方は他のみんなとは何かが違うと思ったから、貴方と話をすればはっきりするんじゃないかと思って」

 彼は黙って王子の話に耳を傾けると、何度も頷いた。


「王子は、私のどういうところがみんなと違うとお思いですか? 」

 王子は少し考えてから言った。

「たぶん考え方だと思います。貴方はみんなに英雄だと思われているのに、少しも偉ぶったりしないでしょう? 僕のまわりにいる大臣たちは、いつもどうやったらもっと偉くなれるかを考えているのに……それに、商人たちだって、どうやったらもっとお金もちになれるかを考えているし、きっとほとんどみんながそうだと思うんです」

 王子は少し間を置いて続けた。

「でも貴方はそういう風に考えていないでしょう? 貴方には大臣になる資格だってあるはずなのに、だからもっと偉くなって、立派なお屋敷に住む事だってできるはず。けれども、貴方は全くそんな事には興味が無いって顔をしている。これには何か重大な理由があるんだ! って、僕はそう考えたんです」

王子はところどころ考えながらゆっくりと話し、彼はその度に何度も頷いた。


「貴方はどうして大臣になろうとしないんですか? 」

 口をつぐんだままの彼を見て、王子は率直に質問してみた。

「どうしてでしょうかね」

 彼は顔一面に笑みを浮かべると、少し照れくさそうに短く言った。

 普段であれば、相手がそれ以上何も言わなければ、王子はそれを尊重する。静寂にも意味があるとう事を王子は理解しているからだ。そういう場合、相手にも話せない理由があるのだと分かっていた。


 しかし、今回ばかりは冷静でいられなかった。冷静ではいられない特別な思いを持って王子は城を出たのだ。


 そしてきっと、彼はその思いを試すためにわざと黙っているに違いないのだ。

 そう考えてから、王子は再び口を開いた。

「貴方は今でも英雄で、みんなに尊敬されているけれど、大臣になったらみんな貴方の事をもっと尊敬すると思います」

「王子、たしかに人々は私を英雄だと言ってくれます。そう言ってもらえるのは確かに誇らしい。しかし、だからと言って、私は大臣になろうとは考えません」

「いきなりたずねて来て質問ばかりしてはいけないのかもしれないけれど、

大臣になろうと思わないのには理由があるんですよね? 僕はどうしても、その理由が知りたいんです。その理由を教えてもらえませんか? 」

王子がそう言うと、彼は先程と同じように顔一面に笑みを浮かべた。


 しかし、先程よりも彼が満足そうなのは、鼻の頭をかく仕草からも明らかだった。

 朝鳥の舞と噴水のきらめく水しぶきを背景にして、彼は話し始めた。

「そうですね。もし、私が本当に大臣に向いていたのであれば、大臣になっても良かったのかもしれませんね。しかし、王子、違うのですよ。私は自分が大臣に向いているなんて、これっぽっちも思ってはいないのです」

 王子は彼の言葉を黙って聞いた。彼が自分の事を大臣に向いていると考えていないのは意外だったが、彼の言葉の隅々から誠実さが溢れていた。

 それは謙虚さや嘘から出た言葉ではなく、まさしく彼の真ん中から放たれていた。

「王子、空を見上げてみて下さい。太陽は私達を照らしている。ただ照らすだけで良いのであって、太陽にとってそれ以上に合った仕事はありません。それでこそ、太陽じゃありませんか?


 王子、腕を少しまくってごらんなさい。風が暖かいでしょう? 夏の風は暖かさを運び、冬の風は冷たさを運んで、私たちの肌に季節の感覚を思い出させてくれます。風は、季節を運ぶのが一番良い。

 同じように私は、人にも一番適している役割があると思うのです。正直な話をすれば、私は国に関心があります。人々にこう振舞って欲しい、という希望だって持っている。でも、実のところ、私は政治のことなどこれっぽっちも分かっていません」

 彼は、ゆっくりとした口調で続けた。

「だから、私が政治をしようというのは、まるで、木の一本も倒した事の無い学者が、斧で大きな木を切ろうとするのと同じことなのです。それでも私には、この国と人々を守りたいという気持ちがある。その気持ちを形にするために、私はこの仕事をしています。


 そして今の仕事以上に、自分に合った仕事があるとは思えません。私にとってこの仕事は、太陽が世界を照らすのと同じ、風が季節を運ぶのと同じなのです」

 王子は、彼の言う事はもっともだと思った。

 もし太陽が世界を照らすのをやめてしまったら、それはもう「太陽」ではない。そうなったら、世界は太陽を無視するだろう。

 それは「遠い空に浮かぶ大きな何か」でしかなくなってしまうんだから……

 しかし彼の話がどれだけもっともらしくても、普通の人たちはそう考えないだろう。

 大臣になれば、彼が人々から今以上に尊敬されるのは確かだ──

 王子はいかにも納得しているように頷きながらも、彼に聞いた。

「貴方の話は、とてももっともだと思います。僕はそこに見える小さな砂粒ほどだって、貴方の意見には反論できません。でも、もう少し貴方の考えを聞かせて欲しいんです。人々が欲しがる『尊敬されたい気持ち』とかって言うのは、貴方にとって全く意味の無いことなのですか? 」

 王子が質問すると、彼は大きく笑った。体全体で笑っていた。

 しかし、彼の眼差しから、その笑いが王子を馬鹿にしたものではなく、喜びから湧き出したものである事はすぐに分かった。


 背中を少し曲げて王子に顔を近づけると、彼は口を開いた。

「王子、私は変わった男です。そして、変わっていると言う事を、少しも悪いと思っていない男なのです。確かに王子のいうように、普通の考え方をする人々は、もっと尊敬されたいとか、もっとお金が欲しいとか思うのでしょう。

 それにですね、そもそも、私にとってみなが言う『普通』と言うのは、単に『多くの人が思っている』、それだけにすぎないのです。つまり人気がある、というのと同じことです。

 だから、私の『考え』は簡単に言えば、あまり人気のない考え方とも言えるかもしれませんね。でも、人気がない考え方をする事は悪い事でしょうか? 誰もが人気のある考え方を採用して、人気のある生き方をする必要はないのでは……少なくとも私は、そう思っています」

 彼の話を聞いている間中、王子は目を輝かせた。考え方に人気があるとか、人気がないとかいう発想自体が、王子にとっては新しい発見に思えたのだ。

 彼は少し間を置くと話を続けた。

「言ってしまえば、私は今でも十分すぎるくらい幸せなのですよ。そして、今以上というものを手に入れようとしてしまったら、今の幸せはもう二度と帰ってこないんじゃないか……そんな気さえしているんです」

「今、以上を手に入れてしまったら、今の幸せは二度と帰ってこない……? 」

 王子は彼の言葉に少し戸惑った。戸惑ったというよりも少し恐かった。なぜなら王子自身も、今以上を手に入れようとしているに違いなかったからだ。深く考えた事はないが、きっと意識せずにそうしているのだ。

 ほとんどの人もきっと、そうしているに違いない。

「それは、今以上を求めようとしてはいけない、って事なのですか? 」

 胸に押し寄せる不安を払いのけるように、王子は彼に聞いた。

「少し難しい質問ですね。王子、それではひとつ例え話をしましょう。例えばですが……ペンギンは空を飛ぶ事ができません。ほとんどの鳥が翼を広げて空を自由に舞うことができるのに、彼らが空から地上を見渡す事はありません。

 でも、だからと言ってペンギンは、自分達のことを不幸だと思っているでしょうか? 決してそんな事はないでしょう。

 しかし、ある日ペンギンのもとに魔女がやって来て魔法をかけてペンギンに翼を与えたとします。翼を与えられたペンギンはどう考えるでしょうか?『きっと、僕は変わったんだ! 』と喜んで大空の散歩を満喫するでしょう。そして、大空を舞うことを心の底から幸せに思うかもしれません。別にそれ自体は、決して悪い事ではないように思えます。


 しかし、数日後、ペンギンの元に再び魔女がやって来てその翼を消し去ってしまったら……どうでしょうか? 彼らはきっと残りの人生を、再び翼をはやすことに費やしてしまうのではないでしょうか。ペンギンは魔女にこう頼み込むはずです。『翼がないなんて僕はなんて不幸なんだろう! お願いだからもう一度、僕に翼を与えてください』こうやって、ペンギンは翼がないことで自分を哀れに感じてしまうはずです。本当は彼らは、彼らのままで、十分過ぎるほど素晴らしいはずなのに……

 反対に、鷹という鳥は大空を自由に舞っています。彼らはいつも風と踊っている。そして彼ら自身も、自分たちは誇り高き鳥だと、自分たちに大きな自信を持って暮らしています。彼らは、ただそれだけで素晴らしい。


 しかし、ある時、鷹の元にも魔女がやって来てこう言いました。『お前たちは空は飛べるが、泳げないだろう? ペンギンのような水掻きが欲しくはないか? ほら、お前たちに水掻きをやろう』水掻きをもらった鷹は大喜びして、湖に飛び込みました。そして、空を舞うのとはまた違う、水を抱く喜びを感じました。『生まれてはじめて泳いでみたが、泳ぐとはなんと素晴らしいことか!

私はこの喜びを知らずに生きていたのか。やはり飛べるだけでは不十分だ。こうなってこそ完璧なのだ! 』しかし、数日後に、魔女は鷹の元に戻ってきて、与えた水掻きを消し去ってしまいました。

 その日を境に、鷹は誇りを失ってしまいました。そして、自分が泳げない事を哀れんで暮らすようになりました。

 本当は、鷹はありのままで十分過ぎるほど素晴らしいのに──」

 話の最中、王子は動揺していた。話の内容が王子の「発見」を越えていたからだ。王子の耳から入った彼の言葉は頭を経由して、まるで心臓まで押し寄せてくるようだった。


 王子の様子を伺いながらも、十分に間を置いて彼は再び口を開いた。

「私は、翼も水掻きもいりません。なぜなら、ただこうして生きているだけで十分幸せだからです。それ以上を求めてしまったら、この話のペンギンや鷹のようになってしまうかもしれない。私はそれを望んでいない……ただ、それだけです。

 特別になる必要などないのですよ。少なくとも私にはそう思えます。王子、つまり私が大臣になりたいと願うことや、お金持になろうと必死になる事は、ペンギンが空を舞うのを夢見たり、鷹が泳ぎたいと思うのと同じ事なのです。私が言いたい事は分かっていただけましたかな? 」

 王子は深く頷いた。最後まで聞いて、彼の考えが本当に素晴らしく思えたからだ。

 それは、今まで王子が家庭教師や父親、大臣から聞いていた考えとはまるっきり逆のようにも思えた。みなは当然のようにより偉く、より尊敬されるようになるべきだと言っていたのだから。


 ひょっとしたら、それは間違いなのではないか? という疑問すら抱いた事がないだろうと思えるくらいに──

 しかし、王子には彼の考えのほうが正しいのではないのか、と素直に思えた。その正しさをうまく言葉で表す事はできないのだが、とにかくその考えは王子にとって、とても心地よいものだった。


 みなが彼のような考え方をしたら、もっと国は良くなるんじゃないだろうか、人々は幸せになれるんじゃないだろうか? だって、「いま以上」をみんなが求めるせいで「争い」が起きるのだろうし、「いま以上」になった自分が、いつも「自分より下」を作ってしまうから、いわゆる「差別」っていうものが生まれるのだろうから──

 ここまで考えて、王子には一つの疑問がわいてきた。

 こんなに素晴らしい考えなのに、多くの人が別の考え方を採用しているのはどうしてなのだろうか? みな争いが好きなのだろうか? いや、絶対にそんな事はないはずだ! 笑顔と笑い声よりも、しかめ面や罵声が好きな人なんていないだろう。人々が彼のような考えを、受け入れないのには何か理由があるはずだ。何か大きな秘密があるに違いないのだ。


 疑問が解決すると、また大きな疑問が頭に浮かんでくる。そしてそれは水面に広がる波紋のように、次第に大きくなっているようにも思えた。

しかし、彼の持つ「鷹の目」はそれすらも見通しているはずだ──

 そう思うと、英雄ゴトーの存在が余計に頼もしく思えて、王子は嬉しかった。だから彼に素直に聞いてみることにした

「貴方の考えは、今まで僕が聞いたどの考えよりも素晴らしいと思います。どうしてそう思うかと聞かれたら、今の僕にはきちんと伝える言葉が見つからないけれど、心からそう思えるんです。

だから、他の人がどう思うかは分からないけれど、今の僕には貴方の考えは正しい。だからとても不思議に思うのです。


世の中にはこんなに素晴らしい考え方があるのに、どうしてみんながそうしないのでしょうか。なぜみんなは『いま以上』じゃなきゃ満足できないのでしょうか? 」

 王子が話し終えると、彼は真剣な顔をして少し考えてから話し始めた。

「王子、これは私が賢者と呼ばれる老人に聞いた話です。私も名前は知らないので、老賢人としておきましょう。老賢人が言うには、人々が『いま以上』を求めるのが当たり前になってしまったのには、こんな理由があるからだそうなのです」

 彼がそう言うと、王子は唾を飲み込んだ。

 話の重大さを考えるといやがおうにも緊張してしまい、喉はカラカラに乾いた。そして、声を出すかわりに大きく目を見開いて、彼に続きを知りたいという合図をした。

「実は人々は、見えない魔物に支配されているそうなのです」

 彼ははっきりとそう言うと、王子の目をジッと見つめた。王子も真っ直ぐに見つめ返そうと頑張ったが、怖くなって目を逸らした。

 見えない魔物? 想像しただけで王子は怖くてたまらなかったのだ。絵本の中で王子は魔物の絵を見た事があるが、それは恐ろしく、この世界のものとは思えないほどだった。

 そのような恐ろしいものに、人々は支配されているというのだろうか──

 王子の固く握った拳の中は、汗で一杯になった

 しかし、精一杯の勇気を振り絞り彼の目を再び見つめた。王子の目を見ると、彼は再び口を開いた。

「私は老賢人から、この魔物がいなかった時代の話を聞いたことがあります。王子にお話いたしましょう」


燦燦と地を照らしていた太陽が、薄黒い雲に一瞬だけ覆われたように見えた。この瞬間は、世界の全てのものが光を失っているのだ。

人々の心も、この暗雲のように魔物に覆われてしまっているというのだろうか、そのせいで、世界の見え方も考え方も変わってしまうのだろうか──

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