第12話 吸い付く



 石原さんの肌が吸い付くように柔らかであることをどうして知っているのかと聞かれたら、触れたからだと言うしかない。




 社会人になったばかりの一年前の俺は、普段仕事でお世話になっている先輩の、飲み会などでの世話は後輩がしなくては、と考えていた。もちろん今でもそういうふうに思っている。

 歓送迎会で石原さんが酔った時、俺は自分が送っていくと言い、上司が捕まえたタクシーに石原さんを連れて乗り込んだ。

 同じ課で、石原さんの同期の佐々木さんが、慌てて自分の名刺の裏に石原さんの部屋の住所を殴り書きして俺に寄越した。

 タクシーを降り、支えながら部屋まで連れて行く。幸い彼は細くて軽いので、俺のような非力な者でもなんとか支えることができた。

「石原さん、着きましたよ。鍵は?」

「…佐々木?」

 酔った石原さんは、俺を佐々木、と呼んだ。

「佐々木さんじゃないですよ、後藤です」

「…後藤?」

 

 石原さんの部屋は物が散乱していた。不潔感はそれほどないが、ゴチャゴチャしているし、よく見れば捨てろよって物の山。

 玄関で靴を脱がせ、廊下を支えて歩く。数メートルの間に、雑誌の山、空っぽのペットボトル、空き缶等が並んでいる。

 扉を開けると、これまた雑然としたリビングが現れた。手前に小さい机と椅子のダイニングセットが置かれているのだが、その椅子の背に、一度着たのであろう服が無造作に複数かけられている。机の上には、コップ、雑誌、本、ペン、みやげっぽい個包装のクッキー、タオルといったものが絶妙に隙間なく置かれている。

 そんな部屋の奥、床に直置きになっているベッドマット。

「石原さん、着きましたよ。はい、寝てくださいよ」

 混沌とした部屋の中、ベッドマットだけは、なんとか寝られるようになっていた。そこへ石原さんを転がす。

「ゴトー、ありがと」

 ギューッと抱きしめられた。ああ、俺が佐々木さんじゃなくて後藤だって分かってくれているな、と思いながら、その変な礼の仕方を受け入れた。受け入れつつハイハイと受け流す。ギュー、の、その力が抜けて、石原さんは眠りにつく。

 …と思っていた。

 でも、違った。

 そのまま、強く引っ張られてベッドマットに引きずり込まれた。

「ちょ、石原さん」

 さっきまで軽かったおじいさんが、重くなる。実は石だった、みたいな怪談話を思い出すほど、急に石原さんのしがみつく力は強くなった。

「寝よ」

 耳元で、囁かれた。

「寝ませんよ。俺、帰ります」

 何も気付いていない俺の、普通の反応。

「ゴトー、真面目」

「真面目?」

 どういう意味かも分からない俺。



 普段から、石原さんのことは色気のある人だと思っていた。二十代の男で色気がある人とは出会ったことが無く、ああ、色気とはこういうことかと思ったりしていた。人と同じスーツを着て、同じだけボタンが開いていても、隙間から除く肌の様子がふとした拍子に直球で溢れかえってこちらをドキリとさせる。組んだ足の様子が肉感をもち、不意にエロい写真のような表情を伴って、この目に飛び込んでくる。

 何度も何度も、ハッとさせられていた。

 不思議な人。

 綺麗な顔。

 たまに見せるニヤッとした表情が、美しくて怖い人。


「あそぼうよ」

 石原さんが俺に囁いた。囁いたんじゃなくて、飲みすぎて声がちょっとやられて掠れたんだと思った。

「遊ぶって、石原さん、酔って寝るだけでしょ」

「酔ってないよ」

「嘘でしょ。酔ってるし、眠そう」

「眠くないよ。あれくらいの量で酔ったりしないから」

「いやいや、酔ってるでしょ」

 一層ギュッと抱きしめられた。

「だいたい、何して遊ぶんですか。もうどこも店開いてないですよ」

 ため息交じりに言った時だった。

「お前はバカだねぇ」

 石原さんがそう呟いた。

「え?なんで?…バカ?」

 どうしてこのタイミングでバカと言われたのか。


 首筋に吸い付かれて悟った。


「え!?なんで!?」

「こういうあそびは」

 こういう遊び?

 どういう遊び?


「いや、いやいやいや!」

「俺が好きだろう」

「好きですけど、そういう好きでは」

「そういうって、どういう…?」

 どういうって、どういうって…!

「石原さんって、男の人が好きなんですか」

「だったら?」

「いやいやいやいや」

「後藤、いつも俺のこと見てる」

 いや、確かに、見ちゃいますけど!

「興味あるんだろ」

「いえ、そういう興味は、わあッ!ぁ…っ!」

 首を吸わないでください、首を!


 俺の首に吸い付きながら、石原さんは俺の手を自分のはだけた胸のあたりに持っていき、触らせた。

「気持ち良くない?」

「いや、あの」

 気持ち良いですけど、でも!


 あまりに急な出来事に、頭が追い付かずに抵抗する俺と、慣れた様子で誘う石原さん。この人なんか慣れてる、慣れてるぞ、と身を捩りながら、俺が思い出したのは佐々木さんのことだった。

「あの、石原さん、佐々木さんは、佐々木さんとはどういう」

「佐々木?佐々木はただの同期でしょ」

「でも、酔ったらいつも佐々木さんが送るって」

「あんな堅物誘っても楽しくないから」

 そうなの?佐々木さんは堅物なの?知らないけど。

「俺も、俺も楽しくないと、思いますよ」

 さっき、石原さんが自分で言ったもの。俺のこと真面目って。

「後藤は面白いよ。反応が素直だし」

「いやいやいやいや」

 確かにね、否定はしません。できませんが。

「でもね、石原さん、同じ会社の、人間ですよ。本気でお付き合い、するわけでもないのに、なんかあったら、不味いと思いませんか?」

 俺が息も絶え絶えであったことは察してもらいたい。

「え~?じゃあ本気で付き合う?」

 じっと見つめられて、本当にドキドキして、だったら良いのかなと思ったときだった。

 石原さんの身体から力が抜けて、突然俺は解放された。

「…石原さん?」


 石原さんは眠っていた。




 

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