三題噺 「いつもの道」「紅葉」「朝焼けが厭に目に染みる」

@shiraemon

「ある男の旅路」

11月1日。20歳の誕生日を迎えたばかりの男が真夜中に一人、30kmもの旅路を黙々と歩いている。

この馬鹿馬鹿しい一文は、僕が今置かれている状況をこの上なく的確に示したものだ。また、成人記念飲み会というイベントに浮かれて散財し、一文無しになった馬鹿の末路を示すものでもある。

回りくどい表現をせず簡潔に伝えると、帰りの電車賃が無くなったので、家まで歩くことになってしまった。現在時刻は4時、家まで残り10km弱といったところだろうか。長時間アスファルトを蹴り続けた我が足は、「家まであと何時間かかるんだ? このまま休憩を貰えないようじゃ棒になっちまうぜ!」と悲鳴を上げている。ごめんな相棒、もう少し僕に力を貸してくれ。話し相手もいないまま、長時間ただ歩き続けるだけの虚無。まったくもって生産性のない行為に飽きた脳は、早くも過去の自分を恨み始めた。


「電車に乗る金がないなら、家まで歩けば良いんじゃないか? 秋の夜風に吹かれながら酔いを醒ますのも悪くないもんだぜ」

冗談のつもりで発せられたであろう友人の言葉。普段なら笑って流し、電車賃を借してくれと頼む場面のはず。しかし、人生で初めての酒に酔い、判断力が著しく低下していた僕は、この発言を鵜呑みにした。「もう二十歳になったんだし、家まで歩いて帰れるんだぞ!」と、気分よく線路に沿って歩き始めた酔っぱらいの成人男性には、5歳児ほどの知能も備わっていなかったのだ。気分よく歩けていたのは最初の一時間程度だけ。12駅分の距離があるにも関わらず、半刻経っても3駅目にすらたどり着いてない事実に気付いたあたりで、事の重大さをやっと認識したのである。


はい、回想終わり。過去を悔いたところで虚無から解放されるわけでもないため、せめて夜の風景を楽しむことにしよう。頭上には満天の星空。なんてことはなく、街灯の主張が強いせいで、広大な宇宙で煌めいている星々の多くは視認することができない。インスタントスープに浮いているクルトンのように、いくつかの明るい星が、闇の中に散らかっている。随分安っぽい夜空だ。それでも、都会の生活に慣れてしまっていると星を眺める機会は少ない。たまには上を向いて歩こう。そうでもしないと、辛さで涙が溢れてしまいそうだ。

月も出ておらず、街灯の明かりにだけ照らされたモノクロの住宅街を一人で延々と歩く寂しさを知っている人はどれほどいるのだろう。10分に一度くらいのペースで目に入るコンビニエンスストアの人工的な明かりにすらぬくもりを感じるようになってしまうと、人間としての感情が消えかけているのではないかと不安になる。ああ、人が恋しいと思ったのは何年ぶりだろうか。無事に帰宅できたら実家に電話でもしようかなと、柄にもないことを考える。年始に帰省して以来家族と顔を合わせていないし、母さんも心配しているだろうな。せっかく20歳になったんだから、父さんと杯を交わしながら近況報告をするのも良さそうだ。その時には、この無意味な夜間歩行を笑い話にしてやろう。


人間というのは不思議な生き物で、楽しいことを考えていると時間が過ぎるのはあっという間だ。過去の過ちを悔やみながら上の空で歩くよりも、明るい未来に目を向けて進む方がよっぽど幸せだ。見知らぬ街並みは後方へと流れ、見慣れた風景が目前に広がる。夜空でゆらゆらと踊っていた小さな星々は、地平線の向こう側に迫ってきた太陽に主役を譲るべく、舞台を降りる。家まであと1kmも無いだろう。試験期間中にしか通わないコーヒーチェーン店を視界に捉えたとき、安堵と達成感による温かな感情で胸が満たされた。下宿を始めてから経過した月日は二年にも満たないはずなのに、家の近所を「いつもの風景」と認識している自分に少なからず驚いた。秋の夜長に肉体を酷使したせいで、センチメンタルな気分になっているのかもしれないなと苦笑する。僕がアパートの前に到着したとき、ふと東の方角に目をやると、山の麓から太陽が昇ろうとしていることに気付いた。淡く白んだ空に目を奪われたのも束の間、暴力的なまでに鮮やかな紅色が飛び込んでくる。ああ、今年も木々が「衣替え」をする時期になったんだなと、紅葉で染まった山に目を奪われる。総距離おおよそ30km、6時間かけて歩き続けた僕の旅は、朝焼けに祝福されながら終わりを迎えるわけだ。存外、放浪の旅も悪くないものだったなと振り返りつつ、ドアを開けようとしたところで重大な事実に気付く。

「家の鍵、どこいった?」

呟いた言葉は、鳥たちのさえずりによって消えてしまうほどに小さなものだった。途方に暮れて、もう一度紅葉に染まった山を眺めようと東に目を向ける。僕の気分とは対照的に、太陽はさっきよりも少し高い場所に昇っていた。


朝焼けが厭に目に染みる。

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