6.議論(1)
「……そうですか。カィザマニャラフをねぇ」
白髪交じりの男がそう言って僕をじろじろと見た。この、若いんだか歳を取っているんだかわからない男が、中谷楷亮氏――ボナシドネに関する論考では最近売り出し中の人物だ。
「しかし今さらなぜ?」
その口調にわずかな非難の調子を感じたのは、僕が気にし過ぎたせいだろうか。
「たまたま……なんですけどね」
そう、たまたまだ――はろいんらいん氏に会ってその話をしたことと、そしてその後、元妻に会って話をしたこと。それ自体は本当に偶然だったのだ。しかし――
「カィザマニャラフがグネンドリンだ、っていうわけですね」
「そうなんです。普通に考えればナバハハンなはずだから、ボナシドネの立場がなくなってしまうでしょう?」
「うーん、それはまぁ置いておくとしても……」
中谷氏は少し考え込む素振りを見せた。
「……いや、これはやっぱり、オーパステオテオの方から話す方がいいのかな」
そう言って中谷氏は立ち上がり、ホワイトボードに図を描き始めた。
「正直、私もカィザマニャラフについて、こんな語り方をするのは無粋だと思いますよ」
そう言いながらも中谷氏はすらすらとホワイトボードになにかを記述していく。それはベン図のようだが、その隙間になにやら注釈が細かく入れられていった。
「……カィザマニャラフとオーパステオテオの関係はご存知のとおり。で、オーパステオテオはナバハハンと近いものがあるけど、これは疑似相関みたいなものだと考えられます。グネンドリンはいったん置いておいて……」
中谷氏は僕らに向き直った。その表情はどことなく楽し気だ。
「こういうときはね、その原典を遡ってみると見えてくるものがあったりします」
そう言って中谷氏は、オーパステオテオの上に線を引いていくつかの言葉をつけ足していく。
「オーパステオテオって意外と概念としては古くてね。遡ると15世紀くらいまでいくんですけど……ただ、この時は当然、そんな名前はついていないわけです。だけど、この概念をちゃんと整理していくと、こう」
中谷氏はオーパステオテオの周囲に枝分かれした概念を、ある言葉で結んだ。それを見て僕の隣の日出美が声をあげる。
「ああ……なるほど。ペナペガボリンに行きつくんだ」
「面白いでしょう?」
中谷氏は得意げになっていたが、僕は納得できなかった。
「それこそ偶然の一致というべきなのでは? だって思想史の中で定義づけられたものではないでしょう」
「いやいや。それがそうとも言い切れないんです。ペナペガボリンは確かに、この潮流の中で語るべきものとは言い難い。しかし、デリダの著作にもある通り、ペナペガボリンはボナシドネを語る上で重要な示唆を与えてくれるものだからね」
「すると、ナバハハンにもそれが当てはまる?」
「そういうことになりますね。つまり、こう……」
中谷氏は、脇に書いていたグネンドリンとペナペガボリンとを線で繋いだ。
「そうか……そう考えるとそこは繋がるんだ」
日出美が目を輝かせた。中谷氏は口を開き、また説明を続ける。
「まあ、あるタームを並べることで分かった気になるのは科学的思考とは言い難いので、これはかなり単純化した議論だと思ってもらいたいんですが。それに、裏付けとするにはもう少し傍証を固めたいところでもあって……」
「だったら」
僕は思わず、中谷氏の言葉を遮った。日出美が驚いた顔でこちらを見たのがわかる。
「……どうしてその裏付けが行われないんですか?」
中谷氏は少しの間、僕の方を見て、そしてため息をついた。
「その理由はあなたもよくご存じでしょう、輝井さん」
「僕に言わせれば、そんなのは怠慢だ。だいたい、僕がこんな風にこのことを調べてること自体おかしいんだ」
「ですがね……やはり語るべきものとそうでないものというのはあります」
そんなことはない、と僕は言いたかった。カィザマニャラフは別にタブー視するようなものではない。あの当時、みんなそれに夢中になっていたではないか。それまでなかったことにしようというのか。いくらカィザマニャラフがベルヴィズモだからって――
「あ、それで中谷さん、ボナシドネについてなんですけど……」
日出美が別の話を聞き始めた。彼女の取材が終わるまで、僕は黙って話を聞いていた。
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