5. 当時の空気を知る者

 日出美とその次に会ったのは、数ヶ月経ってからだった。その後、僕は「空手バカ異世界」第2巻の執筆に追われていたからだ。むしろ、カィザマニャラフにかまけて原稿に手をつけるのが遅くなったことについては、ファンタジア文庫の担当様に謝らなくてはいけないかもしれない。まぁ、一旦それについて本稿では置いておく。


 その日、僕は日出美の車で三田へと向かっていた。原稿がひと段落した時、日出美の方から連絡があったのだ。「例の企業にまた取材することになったので、輝井さんもどうですか?」と。


 正直に言って、関心の薄れかけていたところへ来たその連絡に対して僕の感想は「めんどくさいな」だった。作家というのは得てしてそんなものだ。なにかに関心を持てばのめり込むが、別のなにかに関心を向けると途端に興味を失ったりする。


 しかし、日出美からのメールに付け加えられた一文が、一気に僕の興味を引き戻した。そこには、「先方の担当者は、中谷楷亮さんと言います」とあったのだ。



「しかし、驚いたな……まさか中谷氏だとは」



 助手席でボヤいた僕を、ハンドルを握った日出美が一瞥する。



「私も最近知ったんですよ。中谷さんがボナシドネの権威だって」



 その小柄な身体に似合わず、日出美の運転はなかなか堂に入ったものだった。ハンドルにはスカイブルーのカバーが掛けられており、車内も綺麗に片付いている。


 日出美がハンドルを切りながら口を開いた。



「輝井さん、中谷さんにあったことは?」


「いや、論文を読んだだけで。ボナシドネ理論の最初のやつかな」


「面白い人ですよ。カィザマニャラフも昔ちょっとやってたことがあるみたい」


「へぇ……」



 確か中谷氏は僕より少し年上のはずだ。だとすれば、カィザマニャラフに関わっていたとしてもおかしくはない。どちらかと言うと、この日出美が昔、やっていたことがあると言ったことの方が驚きだ。


 僕は日出美の横顔を眺める。すっきりとした輪郭に、黒い縁の眼鏡がよく似合っている。その年齢は、どう高く見積もっても30代だろう。僕よりも5つは年下のはずだ――


 不意に日出美がこちらを振り返った。



「ん?」


「あ、いや……」



 女性の年齢と容姿を値踏みしていたところを正面から見返されて、僕は動揺した。



「えっと、その……ボナシドネの本は読んだ? ほら、最近でた……」


「ああ、それまだ読んでないんです。専門外ではあるんですよね。興味はあるんだけど」



 取り繕うようにその場しのぎの質問を投げた。



「ボナシドネはやっぱり、ナバハハンとして語るのが本筋だと思います?」


「わたしは専門家じゃないからなあ。一般的な意見しか言えないです」



 日出美は眉をハの字にして笑った。



「あ、でも」



 赤信号で車が止まったとき、思い出したように日出美が言った。



「カィザマニャラフはナバハハンだって考えるのが一般的だけど……ボナシドネで考えるとちょっと齟齬が出ますよね。つまり、力学的な意味において、ですけど……」


「あー、それについては昔結構論争になったんですよ」


「そうなんですか?」


「にちゃんねるとかの匿名掲示板でね」



 日出美はそのころの匿名掲示板の雰囲気は知らないのだろう。まさか当時、そんなところで力学的な均衡からボナシドネの問題を語る議論が夜な夜な行われていたと思わないのも無理のない話だ。



「だけど、それなら中谷さんは却って喜ぶかも?」


「え?」



 僕は驚いて日出美を見た。



「どうして? だって中谷氏は……」


「あの人はそういう方なんです。会えばわかりますよ」



 日出美はそう言って悪戯っぽく笑った。



「それに、あの方も当時の空気を知ってる人ですから。輝井さんとは話が合うかも」


「……そうだといいですね」



 僕は苦笑してシートに背中を埋めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る