夜に備えて

 子どもは、変なことをする。


「ああっ、こら、ママの口紅使っちゃダメ!」

 新作のリップが子どもの魔の手に渡りそうだったので、慌てて4歳の娘から奪い返す。危ない危ない。結婚記念日にプレゼントされたものが、あやうくクレヨンの代わりになるところだった。

「ああー!」

「これはクレヨンじゃないの! お絵かきには使わないの!」

「しってるー! おけしょう! おかおにぬるの!」

「ママの勝手に使っちゃだめ!」

「やだー! やだー! あたしもくちべにやりたい!!!」

 床を転げ回る娘。こうなるとしばらく暴れまわるのだ。

「しょうがないわね」

 新しい口紅はあげられないが、古いやつならいいだろう。たしか前に買ったものの色が明るすぎてほとんど使ってないやつがあったはずだ。

「ほら、こっちならあげるから」

「……………………………………………」

 じっと口紅を見つめていたが、お眼鏡かなったようでそちらのほうに夢中になる。よかった。

「ねーねーあのおひめさまのふくきたいの。水色のやつ」

「結婚式のときにきたやつ?」

「きたい!」

 前に親戚の結婚式のために買って着せた水色のドレスがある。そこそこお値段がしたものだから少しためらったが。

(まあいいか……そろそろ着れなくなるだろうし)

 子どもの成長は早い。服なんてあっという間に着れなくなるから今ここで着せて、仮に汚してしまっても問題ないだろう。もし次に着る機会があったら、そのときはレンタルしたらいいのだ。

「きたいきたい!」

「はいはい、少し待ってて」

 しかし、普段は大人しく一人で遊んでいるのに、急にどうしたんだろう?


 夜になった。深夜、トイレに目覚めて用を済まして、早くベッドに戻ろうとすると、リビングのドアが開いていることに気づいた。

 月明かりで辛うじて輪郭が分かる部屋の中は、ドアどころかベランダに通じる窓すら開いている。ベランダには段ボールを積み上げてその上に乗った、水色のドレスを着た娘がいた。

「ちょっと! 何してるの! 危ない!」

「しずかにしてなきゃだめなんだよ」

「そうじゃなくて……」

「おうじさまが、くるの」

 王子様? と頭に疑問符を浮かべていると、にわかに夜に光が差した。

「え……」

 空に行列があった。

 宙に多数が並ぶ列がある。行列は思い思いのきらびやかな衣装を着て、ランタンを持ち、歌いながら夜の空を歩いている。人のような体躯だが、顔は動物であり、あるいは食器であり、あるいは首がなかったり、まるで絵本の世界のようだ。

「おうじさま」

 娘が指す先、行列の先頭。

 そこには、長い金髪で、白い肌で、碧眼の、頭に王冠を乗せたきらびやかな衣装の男が歩いている。夜を切り裂きゆったりと行列を率いている。

 娘がぶんぶんと手を振ると、"おうじさま"は気づいて微笑み、手を振り返した。

「ね、ね、おうじさま! てふってくれたの!」

「え、ええ……」

 困惑している間に行列は消え、あとに残るのはただの夜。

「幻……?」

「ちがうよ。よるのおうじさまだよ」

 娘は……千花ははっきりと、断言する。


 娘が、千花が四歳のころのこと。……きっと私が見た夢の話だ。

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