「ま」
「ま」が歩いていた。
(「ま」……?)
トコトコ トコトコ
そんな風な擬音を出していそうなほどファンシーに、ひらがなの「ま」が歩いている。大きさは膝下くらいで、厚みは十センチほど。体の色は黄色。それに棒のような足に丸みを帯びた靴を履いて、職場の床をとことこと歩いている。
ひらがなの「ま」が。
(………………幻覚…………………?)
目を擦るが、相変わらず「ま」は古くて傷や汚れが目立つ床の上を歩いていた。
「おい、何見てんだ?」
「なあ、あっちにさ……」
「ん? なんかある?」
明らかな異物を、同僚は認識していない。幻覚で確定だ。
「ああああ……………疲れてる、疲れてるよ俺…………………」
「どうしたんだよ……」
「いや……幻覚っぽいのが……」
「は? ……まあ最近忙しかったし、早めに休憩入れよ。なんなら早退するか? 終業近いけどさ」
「休憩……そうだな」
早退も視野に入れながら、休憩室へ向かう。その進路の先にたまたま「ま」が歩いてきていた。来るな幻覚。あっちへ行け。「ま」は俺の前を横切って、近くで掃除をしていた新人のところへ向かう。そして「ま」は新人の背後でぴょんと飛んで、その体の中にするりと入り込んでいた。
(は?)
幻覚とはいえ少し驚いて眺めてしまったが、よく見ると、もっと肝が冷えるものがあった。
「おい、何してるんだ!!!!!」
「へ?」
大声を出して、慌てて新人を羽交い締めし、"それ"から遠ざけた。
ごうんごうん
ごうんごうん
鈍く音をたてて回転するローラー。そうここは工場。作業工程の一つに使う回転ローラーを掃除するときは必ず電源を切らなければならないのに、あろうことが電源どころかローラーを動かしたまま掃除しようとしていたのだ。
「いや……回転してるっていってもこれゆーっくり動きますし……いちいち電源止めるの面倒で……」
「この世にそれで死んだやつは何人もいるんだよ!!!!!」
回転ローラーは怖い。いったい世界で何人の従業員が回転ローラーに巻き込まれて死んだんだろう。高速で回ってるやつは高速で殺してくるし、ゆっくり回ってるはゆっくり殺してくるのだ。鋼鉄の力の前では、巻き込まれたことを悟った人間の抵抗なんて無意味である。唯一安全なのは電源を切っているときだ。
声を聞いてなんだなんだと他の同僚たちがやってくる。そのうち俺の何倍も怖い工場長が飛んできて、鬼のような顔で新人を別室へ連れていった。
「あっぶねーなーあいつ。労災寸前じゃん」
「お手柄だな」
「ああ……」
はあ、一気に疲れた、と息を吐くと、連れていかれている新人の背中から「ま」がぴょんと飛び出してきた。「ま」はとことこと歩いていくと、やがて壁をすり抜けて工場を出ていった。
魔が差す、そんな慣用句をふと思い出した。
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