兄の傷跡
ああ、やってきてしまった。また、自分を刻まないと。
*****
「引きこもろうかな」
普段元気な健康体な不動くんがいきなりそう言い出した。今だっていつも通りの遊んだ帰りなのに。
「コロナ?」
「それもあるけど、いや、クソ性嗜好がこう……我慢できなくなりそうな……たまにあるんたけど……」
不動くんは人の命が失われる瞬間に性的に興奮してしまう厄介な性嗜好を持っている。反社会的すぎて普段は抑えているらしいが、たまに抑えきれなくなるようだ。
「なんかもう誰でもいいからなんかこう……したいなって。でも仮に殺していいクズやったとするじゃん? 絶対テンション上がりすぎて証拠残して捕まるよ俺。やだよ三島と会えないの」
「いつもどうしてるの」
「グロ動画とか見てオナってるけどぉー。なんか今回それでもダメっぽいから」
ポケットからいつものカッターを取り出す。ぎちぎちと音を立てて伸ばした刃を、自分の手首に当てた。
「自分の体を、こう、な」
「そうするとどうなるの」
「痛くて萎える。それをこのだらしねえちんちんが冷静になるまでやるわけだ」
「体ズタズタになると思うんだけど」
「だからいっつもこれレベルんときは学校休んで収まって傷治るまでヒッキーになってたよ俺」
「…………」
じゃら、と学校だろうが休日だろうがいつも大量につけて手首を覆っているブレスレットが鳴る。派手好きな子だから気にしてなかったが、そういうことか。
「はい」
「ん?」
「血が出ない程度なら噛んでもいいよ」
手を差し出す。あくまで本来は他人をどうこうしたいという欲求なのだ。自分をズタズタにするより早く満足できるだろう。
「そりゃだめだ」
「なんで」
「生殺しだぜ。多分我慢できなくなる」
珍しく眉間にシワを寄せて、口を手で覆っている。
「そう」
それだけ返して、話題を変えた。
*****
血の臭いがした。
「ガーゼかティッシュない? 足んなくなったんだけど」
真っ赤になったティッシュで手首を押さえながら、日陰兄が大したことないような口調で問いかけてきた。
「ちょっと! あんたまたなの!」
「うん」
まるでいつものことみたいな答え方だ。
日陰兄はときどきこうやって自分を切り刻む。かと思えばテレビやネットで見たメンヘラみたいに、叫んだり暴力をふるったりせず本人はいつも通りケロっとしてるから逆にどう扱っていいのかわからない。
両親も精神科や心療内科につれていこうとしたが、激しく拒否されたらしい。いったい両親と日陰兄の間であった話し合いで何があったが分からないが、ともかく日陰兄のたまにあるリストカットは放置しておくというルールができた。
「……多分、無理矢理止めたほうが酷いことになる。あれは」
父さんはそう言っていた。いったい日陰兄は何を考えてこんなことをするんだろう。
「あんたねー品薄の時期に……」
「それは本当にごめん」
新品のティッシュを差し出しながら、姉ちゃんが文句を言っている。命の危機まではいかないリストカットに、家族はすっかり慣れてしまった。
日陰兄はボックスティッシュ一箱もらうと、さっさと自室に戻っていった。本当に、ただいつと通りの日常といった風に、落ち着いた様子で。
「…………」
でもあんなことするくらいなのだから、きっと何かで辛くて困ってるんだと思う。
*****
「困ってることぉ?」
「うん……」
「手がクソほど痛い」
それは自分でやったせいだ。
日陰兄の自室を訪れて、何か困ってることがないか聞いてみた。
「辛いことがあるからそういうことするんだよね? なんか、手助けできたらなって……」
「優しい弟じゃねえか……」
涙をぬぐうような仕草をされた。
「つってもなーお兄ちゃんがこういうことする理由は小学生なお前にはハードモードすぎて話せねえな」
「え……」
「だって親父すらドン引きしてたし……」
レスラーみたいな体をしていて、チンピラの喧嘩にも平気で首を突っ込む豪胆なお父さんをドン引きさせるなんて、いったいどんな理由なんだろう。
「三島と御山くらいかなぁ……いや三島も御山も引いてただろうけど」
「?」
「……まあできればお兄ちゃんはかわいい弟にはいつも通り接してほしいなって思うな」
「それでいいの?」
「癒されるから。なにもかもさらけ出す趣味はねえし」
ヒラヒラと、血が滲んだ包帯が巻かれた手を動かす。
ガタガタと風が窓を揺らす。夜は深く、窓の外の月は明るい。
「たまに……」
「?」
「たまに思うんだよなあ。
本当は人間じゃなくてなんかのお化けになるはずだったのに間違って人間に産まれたんじゃないかって」
「………」
「なんとなく、な」
日陰兄の服の裾をつかむ。
「……お化けでも、僕は日陰兄のこと好きだよ」
「かわいい弟め」
わしわしを頭を撫でられた。血の臭いが鼻の中を突いていく。
翌日。左腕を包帯で巻いた日陰兄は何事もないかのように朝起きて、ご飯を食べて、リビングでだらだらしていた。
「日陰、あんたにお客さん」
玄関のベルがなり、対応したお母さんが戻ってきた。
「かわいい女の子」
「女ぁ? 連絡もなしに来るなんざユキかサナかミサキか……」
日陰兄の友達の女の子はやたらかわいい子が多い。日陰兄は玄関へとすぐに続くリビングのドアを開ける。
「…………」
「三島じゃ~ん! どうした?」
髪がゆるくウェーブしたお人形さんみたいな女の子が、無表情で立っていた。
「生きてるか死んでるか確認しにきたんだけど」
「生きてるに決まってるじゃ~ん! お前と結婚するまで死ねないからぁ」
デレデレな日陰兄。対して、ミシマさんという女の子はまだ無表情だ。
「ところで、ユキとサナとミサキって、誰」
「……………」
日陰兄は無言で土下座を始めた。お母さんが口を挟む。
「やだ、あんた浮気でもしたの?」
「してねえよ! ただやり取りとかで誤解を招く表現はあったなって!」
「じゃあね。帰るから」
「待っっって!」
「そもそも付き合ってないから別に土下座とかいらないし……。あと生死確認できたから目的達成したしね」
「えー、いいじゃん遊ぼうぜ」
土下座とかいらないと言われた瞬間にいつもの日陰兄に戻った。切り替えが早い。
「外出控えたほうがいいでしょ」
「じゃあ俺の部屋で遊ぶか!」
名案、とばかりに満面の笑顔になる。
「でも急にきたし」
「まーまーまーまー」
強引に家にあがらせて、リビングのソファに座らせる。全国的な休校により行き場を失った不動家の姉妹兄弟が見つめているが、意に介さず出されたお茶をすすっていた。
「じゃあ俺ちょっと部屋片付けてくるから! ちんこの形したぬいぐるみとか普通にあるんだわ俺の部屋! 隠してくる!」
「なんでそういうこと堂々と言うの……」
半眼で睨まれているが、日陰兄は鼻唄を歌いながら二階へとあがっていく。
「あの……」
「なんでしょう」
「日陰兄のカノ」
「友達」
言い終わる前に訂正された。
「ミシマさんは日陰兄のお友達?」
「そうだね」
ミシマさんとやらは言っていた。生死の確認、と。そして日陰兄の包帯ぐるぐるの腕を見ても、なんとも言わない。
知っているんだろうか。知った上で、お友達なんだろうか。
「ミシマさんは……その……」
なにかを言うつもりではある。うまく口にはできないが。
「日陰兄とずっとお友達でいてくれますか?」
「今のところはね」
「えっと、自分のこととか、こう、傷つけてても?」
「そうだね」
驚くことなく茶をすすっている。
「じゃあ……」
「…………」
「日陰兄が、お化けでも?」
「そうだね」
一切の躊躇いもない回答だった。
「いっしょに遊べるなら、お化けでも人間でもどっちでもいいよ」
「お待たせ~!」
日陰兄が降りてきた。ハートマークを飛ばしながらミシマさんを上に連れていこうとする。
「さ、さ、さ。行こう行こう行こう。変なことしないから」
「当たり前でしょ」
二人は階段を上がっていく。日陰兄には僕にはまだ立ち入れない領域があるけど、例え家族以外の誰かでも、日陰兄のことを理解して、日陰兄が幸せそうならそれでいいか、と思った。
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