好きだった娘の思い出(後編)
「カエルをいじめるのは止めなさい」
「どうして?」
「カエルさんが痛がるだろう?」
「……? でも、おれは痛くないよ?」
「…………」
そう、カエルをいじめても、俺は痛くない。
*****
大好きな両親は言っていた。強い力は誰かを傷つけるためではなく、好きな人を守るために使うべきだと。
そして今まさに目の前に、好きな娘を苦しめる存在がいる。好きな娘を苦しめるものなんて、滅ぼしてしまえば良い。
ぎちぎちぎちぎち……
鉄が鳴る。日常で、工作の時間で、美術の時間で、何度も何度も聞いたことあることが音。薄い刃が顔を出す音。手の中の微かな音は、耳に良く馴染む。
ああ、この音が好きだ。ふとそう思った。
『このっ……!』
罵倒。罵倒。罵倒。血に濡れた幽霊が、こちらを罵っている。それでも俺の心は微塵も動かない。庭全体を見回す。庭の隅にあるシャベル。古びたプレハブ小屋の半端に開いたドアの隙間に見える金槌。木の陰で植物に巻かれている、錆びた手斧。
ここはいい場所だ。
『殺してやるっ……!』
春山の姉が吠える。ああうるさい。両親の言いつけ通り、この強い力を好きな娘を守るために使おう。こんなもの早々に片付けてやるのだ。
目を刺した。
指を落とした。
赤い口を裂いた。
手を切り落とした。
足も切って落とした。
別にいじめたいわけじゃなかった。大好きなグロテスクの現場だというのに、不思議と高揚感はない。鶏肉を切るときと気分は同じだった。ただ、今後二度と春山に近づく気なんておきないような目に遭わせればいいんだなと思って、だからそうした。
カッターで。
シャベルで。
スコップで。
庭にあったものを全て使って。俺のことがトラウマになることを祈りながら。
「あれ?」
急に目の前の肉がなくなった。生々しい血は服にべったりとついているし、抵抗の痕のひっかき傷夜あるが、肉片はもう跡形もない。
「逃げた……?」
あるいは成仏か、自分から地獄に行ったか。わかるのは春山の姉が突然消えたことだけ。
「まあ、いいか」
もう二度と現れなければそれでいいのだ。
「なあ春山」
「ヒッ」
春山は庭の隅でへたり込んでいた。妙な臭いがするなと思ったが、どうも漏らしている。
……こういうとき、異性である俺はどうやって振る舞えばいいんだろうか。
「はる」
「近寄らないでっ!」
春山は、どこから持ってきたのか、震える手で木槌のようなもよを突き出している。ああうんそうだよな。やはり異性には近くにいて欲しくはないだろう。今、血まみれで汚いし。
「じゃあ俺は」
「やめて!!!! 来ないで! こんなのおかしい!!!!!」
別に近寄ろうとしたわけじゃない。いやむしろとりあえず家の中に入ろうと提案しようとしたのだが、春山は立ち上がり、その木槌を思いっきり振りかぶった。
とある街の事件である。
中学生の女子が同級生の男子を木槌で殴りつけた。男子は重傷を負って入院した。
女子は錯乱しており、供述がまったく意味不明であるという。
*****
「……なんでだよ」
「…………」
御山の険しい顔。本当に心配してくれているだけに、ばつが悪い。
春山に死ぬかもって思うぐらいしこたま殴られた俺は、今は病院に入院している。いやそれはいい。死にかけたがなんとか生きているのだから。
問題は、春山。
「……春山は」
「さあな」
世間一般では、中学生女子が無抵抗の同級生男子を殺す寸前まで殴り倒した事件、ということになっているらしい。春山や俺が証言している「春山の姉」なんて存在の痕跡は、一切見当たらないそうだ。当然だが。
警察がどんな判断を下すかは分からないが、春山の人生に陰りがでるのは間違いないだろう。
春山のことが好きだし、助けたかった。あの姉がいたら、ずっと春山は一人きりなのは確かだ。
けど、結局春山を不幸にしたのは自分だ。
こんなのおかしい、と言っていた。
「わからん」
「何が」
「『普通』だったら、どうしたんだろうなって」
普通。
普通は苦手だ。嫌いじゃなくて苦手。
俺の気持ちとか考えはいつも極端で、よく人からあれやこれや言われる。しかし別に極端なことを言おう考えようなんて思っていない。むしろ周りの「普通」に「え、なんでそこまでされて黙ってんの? 我慢しようとすんの?」って思うこともある。
けどそれは「普通」じゃないみたいだ。だから大好きな人たちの言葉に倣う。親とか、友達とか。それはきっと普通で正しいことだから。
もっとも、場合によっては「普通」とか無視して突っ走るが。
(……………)
体に巻かれる包帯。心配する家族と友人。警察沙汰になった春山。誰一人として幸せになったやつはいない。
────やめて!!!! 来ないで! こんなのおかしい!!!!!
(好きな娘助けたかっただけなんだけどな……)
俺だって全ての「普通」が理解できないわけじゃない。好きな人を助けたいという気持ちは、俺でもちゃんと理解できる「普通」だ。だから少しくらい行動が普通から外れても、そこはちゃんと貫こうと思っていたのに結果がこれだ。
「普通はさ、こういうときどういう行動とるの。好きな娘がお化けにまとわりつかれてるなんて聞いたらさ」
「なるべく関わらない。面倒なことは背負い込まない」
「助けねえのかよ……」
「あとは、霊能者、とか」
餅は餅屋。ああ、俺もそうすれば良かったんだろうか。
「次は、そうする。霊能者のツテなんて今はねえけど」
俺は強いから、周りの人を守らないと。
だってそれが普通で、俺でも分かる常識だから。
「弱々しい怪我人が生意気言うなよ。今のお前なら僕でも倒せる」
「言うねえ。いや多分マジでそうだろうけど」
内臓ボコられて今普通に食事すらままならないのだ。細い御山だろうが多分簡単に治せるだろう。
「……お前は」
ボソ、と御山が呟く。
「お前がまったく普通の人間だったら、昔の僕のことは助けられなかっただろうな」
「……あー、まあな」
多分、御山の母親のことだろう。あの場にいた俺が普通の子供だった、素直に救急車を呼んで、母親はまだ生きていた可能性もある。
「結果的に春山は姉から解放されはしたんだ。多分。長い目で見ればいいことなんだろう。春山だってしばらく経てば落ちつくかもしれないしそうじゃないかもしれない。
どう転ぶかわからないうちから気にするのはやめとけ」
「……わかった」
「じゃ、この話は終わり」
御山はパン、と両手を合わせた。
「お前は、お前のことそのまま好きになってくれるやつを探せ。お前が普通じゃなくても気にしないやつを」
「なんで」
「クラスメイト程度の浅い付き合いならともかく、恋人レベルで深く付き合えばお前がどうあがいても気が違ってることはわかっちゃうだろ。そのたびに逃げられたら面倒だろ」
「ひでぇ。まあそうだけどさ」
「お前が変なことしてもビビらないやつを相手にしろ。……なかなかいないだろうけど」
「お前みたいな?」
「……まあ、そんなかんじ」
「いるかねえ。もういっそ付き合ってくれよ御山ァ。薄目で見るとかわいいじゃんお前。なんかイケる気がしてきた」
「悪かったな女顔で!!!」
そんなやりとりをしたのが、中学一年生の時のこと。
*****
「なんでいつもカッターを持ってるの?」
「ん?」
俺は三島のほうを向く。三島はいつも通りの無表情でじっと俺を見つめていた。
「……今聞かれるとは思ってなかった」
今、他人の鼻の穴の中にカッターの刃を入れるか入れないかという場面だ。
今日は三島と出かける日。合流したあと、俺は一度トイレのためにコンビニに寄った。用を足して三島のところに戻ろうとすると、三島にナンパ男が話しかけてるじゃないか。それはいい。三島かわいいもんな。ナンパしたくなる気持ちはわかる。俺もしたことある。だからここは俺が登場して「この子俺の連れなんでぇ~」って穏便に引き剥がそうとしようとしたところで、はっきりと断られたと思わしきナンパ男の声がきこえた。
「調子乗ってンじゃねえぞブス」
よし殺そう。もしくはトラウマになってナンパができなくなる体にしてやる。俺は即座にナンパ男を路地裏に連れ込んだ。胸ぐら掴んで壁に押しつけて、相棒の薄刃をとりあえず鼻の穴に突っ込もうとしたら、三島から質問が飛んできた。
「こいつを持ち歩いている理由はな、あ、待って、こいつの鼻ぐりぐりさせて」
「私とその人、どっちが大事?」
「お前に決まってるじゃん~~~!!!」
キスを投げる。避けられたが。その隙にナンパ男は力が緩んだ腕を振り払って逃げていった。
「逃ーげられた」
「警察沙汰にならなくて良かったね」
頬を引っ張られた。多分つねられている。全然痛くねえけど。
「なに」
「あんまり刃物振り回さないようにね」
「わかりましたぁ」
「絶対わかってないよね」
しょうがない人、と一言。
「で、なんでいつもカッター持ってるの」
「そりゃ何かあったときのためにお前を守るためだよ? ナイフとかだと持ってるだけ補導されちまうしな!」
もっとも活躍できる機会はそうないが。常備していてもほとんど通常の使用用途でしか使われない。
「せめて素手でお願いしたいんだけど」
「まーまー。備えあれば憂いなしだ」
言いながら、カッターをしまう。
「じゃ、行こうぜ。無駄に時間食っちまっ」
そこまで言ったところで、手を繋がれた。小さくて白い手が、俺の褐色の手を包む。
「えっ、なにっ、好きっ」
「繋いでないと簡単に刃物振り回すんだから」
たしかに三島は左手を俺の右手と繋いでいる。俺の利き手は右だしカッターも右ポケットに入っているので、使うのならば三島の手を振り払わなければならない。……そんなもったいないことできるわけない。
「好き……」
「そう」
淡々と、無表情。いつもの三島だ。何を見ても動じない三島。俺が刃物を持っても恐れない三島。
「愛してるから付き合ってくれよ~」
「イヤ」
なんでさ、と。そんな会話をしながら、薄暗い路地から明るい商店街へと、手を繋ぎながら歩いていった。
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