夢の中で
その日は夢見が悪かった。
夢の中の私は朝起きて髪を梳かしていると、大きな櫛を落として足にぶつけてしまった。痛かった。
夢の中の私は学校に行こうと家を出るときに、道端にあった犬の糞を踏んでしまった。
夢の中の私は授業を受けた後お昼休みにお弁当を食べようとして、箸を忘れたことに気付いた。結局わざわざ割り箸を買いに行った。
夢の中の私は。
夢の中の私は、放課後に『誰か』といっしょに歩いていた。誰かは夕日の逆光のせいでわからない。そして、その『誰か』に首を絞められていた。自分より体も腕も大きくて、力が強い誰かに。
意識を失ったことは覚えている。死んだかどうかは、分からない。
逆光を作った夕暮れの色だけ、不思議と印象に残っている。
「………………………」
朝起きた私は櫛で髪を梳かした。落とさないようにしっかりと櫛を持って髪を梳かす。
「痛っ」
櫛に意識を持っていかれたせいか、腕が棚に当たって、そのせいか上に置かれていた置物が頭に当たる。とてもとても、痛かった。夢の中よりも、痛かった。ほんのちょっとだけ、血が出た。
学校に行こうとして家を出ようとした私は、道端の犬の糞に気をつけて歩いた。
「……っ!」
踏んだ側溝の蓋が外れて、足がはまった。濡れた上に、すりむいて怪我もした。血が少し出た。
授業を受けた後、お昼休み。出掛ける前に確認したので箸はちゃんとある。箸はあったから割り箸を買いに出掛けずに済んで、そして、転んだクラスメイトに巻き込まれて、体を床に打ち付けた。足もひねって、しばらく痛かった。
「………………」
夢の再現のような日。そしてそれを避ければ、事態が悪化する日。
「なんか三島、運悪いよな今日」
「………………………そうだね」
放課後、自分より体格が良くて力が強い子の隣で、嘆息。
不動くんは人殺しの映像が好きな子だ。更に突発的に、思いつきで動く子だ。そして、制服のポケットにカッターを常備している子だ。
大人しく首を締められるだけなら気絶で済むかもしれない。
刺されたら、分からない。
(いや、さすがにそれは………)
思いついたことを実行しようとして、同時に、不動くんが既にポケットからカッターを出していたのを、見た。
夢の中の俺は三島の首を絞めていた。
いつも無表情の三島の顔が歪んで、もがいていた手がだんだんと弱くなって、ついには動かなくなる。力を入れて首の骨を折った音がしたあと、ようやく手を離した。好きな娘の命は既に喪われ、ただの物となっている。ゾクゾクとした味わったことのない感覚が背筋に走って、立っていることすらできずにへたりこむ。
遺体が夕暮れに照らされていたのが、妙に印象に残っていた。
「…………………………………」
それで夢精するのだから本当にどうしようもない性嗜好だとは思う。夜明け前に密かに下着を洗う惨めさったらない。
ごめん三島と心の中で謝ってはおいた。それでも申し訳ないから適当な理由をつけて学校でおかしを奢った。三島は不思議そうな顔をしていたがヘラヘラとした顔で誤魔化しておく。
「なんか三島、運悪いよな今日」
「………………………そうだね」
放課後、いつものようにいっしょに帰る。今日はやたらと三島は怪我をしがちな日だ。そのせいか、いつもよりも表情は暗い。
(………いかん)
三島の白い首が目に入る。細い首。自分の大きい手なら問題なく包むことができる首。
朝の夢精を思い出す。
多分本当に折ったら、すごく気持ちいい。
(ほんとクソみたいな性癖だな)
脳内で自分を罵倒しながら落ちつかせる。他のことに集中しようとしても、周りには何もない遊歩道。ただただ風に揺すられた木の葉が乾いた音を立てる場所。暗く、視界も悪いので、他には誰もいない場所。夕暮れの中で、二人っきり。
心が煽られる。欲望に従えと、どうしようもない性嗜好が囁く。
それでも。
それでも、好きな娘の命を手折るのは、気が引けるのだ。
まだやれていないことはたくさんある。旅行もしたことないし、お互いの部屋に行ったことはないし、恋人にもなれていないし。
(三島のちゃんとした笑顔とか、見たことねえし……)
多分それは、とてもかわいいのだと思う。見てみたいと思う。見たいなら、殺してはいけない。
理性はそう語っているのに、本能は、性嗜好は、じっと三島の首を見つめている。
美しい夕暮れの中で、自分よりも小さくて、弱くて、儚くて、好きな娘の、
首を。
「…………………っ!」
反射的だったと思う。何も考えてないに等しかった。
いつも持っているカッターの刃を、自分のほうに突きつけていた。
「……………」
「ごめん……………」
ベンチに二人並んで座る。三島の手は、急遽買った包帯が巻かれている。俺が自分に向けたカッターの刃を三島が自分の手で塞いだから、当然見事に刺さったのだ。
「えーと……その、説明したとおり、そういう性嗜好で、その、急に、なんか首締めたくなって……それはだめだろーって思って、だったら俺が死んだ方が良くない? みたいな?」
「ふうん」
そんな話を聞かされたのに、三島はいつもの無表情である。走って逃げ出してもいいくらいなのに。
「がまんするんだ」
「そりゃそうだろ」
「なんで」
「なんでって……」
「普段あれだけ簡単に殴ったり蹴ったりする子がちゃんとがまんするって珍しいなって」
「だって殺したらデートできねえし……」
「…………」
「結婚出来ねえし………」
「…………」
「お前のかわいい笑顔とか見てみたいわけよ」
「…………へー…………」
「そもそも冷静に考えたら俺の性癖人として終わりすぎじゃん。死んだほうがやっぱ世のためだろ」
「普段世のためとか考えてないくせに」
視線は冷たい。頬もつねられた。
「そんなことしなくてもいいよ」
「いやー…………ほら……………」
「そんなことしなくても、手塞いだらいいのに。そうしたら、首締めれないでしょ」
急に手を握られた。びくっとなる。
「何驚いてるの。女慣れしてるんでしょ」
「女慣れって問題なのかこれ……」
夕暮れの遠くの遠くが、夜の色に変わり始めた。
「なー、俺お前のこと殺そうとしたんだけどー。クソみたいな変態嗜好のせいでさー」
「そうだね」
「いいのかその反応で……」
「死んだってどうせ幽霊になるだけだし……お肉があるかないかの違い」
霊感があるとそういう考えになるんだろうか。その考え方は想定していなかった。
「なんとなく、憂鬱なの。いつも」
ぼそり、と口を開く。
「別に今すぐ死にたいほどじゃないけど、将来の夢とか、やりたいこととか特にないよ。ただ娘が死んだら、お父さんもお母さんも悲しむかなって。それだけ。
何かの拍子に死んだりしても、多分別に何とも思わないと思う」
だから、ただぼんやりとなんとなく生きているだけだと呟くように語る。
「不動くんがアレな子なんて、いまさらだし……」
俯いていた顔がこちらを向く。作り物のような整った顔がじっとこちらを見つめている。
「でも、せっかくがまんしてくれたし、今はいいかな。別に、死ななくて。
やるなら、私が本当に死にたいときに殺してね」
クス、と。
少しだけ、笑っている。
「こ、殺さねえもん……多分……」
「そう。がんばってね」
動揺してどもる俺を意に介することなく、三島はどこまでも淡々としている。笑顔は見間違いか幻かと思うくらい、また無表情に戻っていた。
夢の中の惨劇は夕暮れの中だった。俺は夜の帳が落ちきるまで、三島の小さい手を握り続けた。
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