第二話

 いつも通りの味わいに舌鼓を打ち、いつも通り弁当箱を片付けてから手を合わせる。心地よい満腹感を感じていると、穏やかな日差しが程よい温度で身を包んでくれた。眠い。欠伸が出て、目尻に涙が溜まった。ポケットからクールミント味のタブレット菓子を取り出し、おやつ代わりに一粒口に放り込む。触れた舌先が少しヒリヒリし、口内に清涼感が広がって少し眠気が晴れた。

 粒を転がしながら、私はもう一つのポケットから文庫本を取り出した。読みかけの頁に挟んでいた栞を取り出し、続きから読み始める。ちょうど、主人公がヒロインに思いを告げるシーンだった。

 「俺、ずっと君のことが……」

 秘め続けてきた想いを情熱的に?主人公が伝える描写に目を通す。でも内容はちっとも頭に入ってこなかった。別世界の出来事過ぎて、脳の理解が追い付かない。

 正直、読まなきゃよかったなと今では思っている。元々恋愛小説は私の守備範囲じゃないのだ。それなのにわざわざ図書館で借りて目を通したのは、随分と馬鹿馬鹿しい理由だ。

 「これを読んでたら彼が話しかけてくれるかも、なんて……」

 痛々しすぎる。

 声なき声を小さく呟き、かき消すようにため息を吐く。本をパタンと閉じながら覆いかぶさるように膝に頭を近づけ、視界を狭く暗くした。そうすると、やたらと落ち着く。多分こっちの方が性に合っているんだろう。

 そう思いながら瞼を下ろすと、頭の中から声が聞こえた。


 コレッ!あんたいつまでそうしている気だい!さっさと外で友達と遊んできな!!


 轟く雷鳴のような迫力を伴ったその怒声は、もういない祖母の声だ。小さい頃はその声が恐かった。正直言えば今も怖い。でも、少し安心する。

 私はお婆ちゃん子だった。普通祖父母というのは孫から好かれれば嬉しくなって可愛がるものだと思うのだが、私の祖母は違った。私が側にいることを嫌い、執拗に外へと追い出そうとした。


 いいかい、私はいつまでもあんたの側にいられるわけじゃないんだ。やがて死んじまうからね。だからあんたは私以外に関われる人を探さなくちゃいけない。


 今思い返しても、子供の私に言うことではないだろうと思う。でもそれは、多分祖母なりの気遣いと優しさだったんだと思う。

 だって実際、私は今こうして一人でいる。何度怒られても、何度遠ざけられても、私は祖母の側にい続けた。それを後悔してはいないし、今私が一人でいるのを祖母のせいにするつもりも全然ないけれど、それでも多分、私はあの時戦う力を育てきれなかったのだと思う。

 それは見極める力で、見定める力で、何よりも視る力。

 私のセカイには、私色しか映らない。他人が分からなくて、勝手に自己解釈して、それを押し付けてセカイは構築されている。

 私しかいないのが、私のセカイだ。私が好きな彼だって、所詮は私にとっての「彼」でしかないのだ。それが本当の彼かどうかは分からない。私の色眼鏡を通したモノだけが、私の世界を覆いつくしている。私が見ているものは世界の真実の姿とは乖離していているのに、私だけがそれに気づいていないのかもしれない。ピエロのように不気味に口角を釣り上げた人々の間を、私が無邪気な笑顔でスキップしていくイメージが脳内で再生される。気分は最悪だ。どっちがピエロか分からない。

 こんな偏屈な考え方をする子供に育って、祖母には本当に申し訳ないなと思う。でも生まれつきの側面が強いので、環境が悪かったわけではない。私は祖母と、楽しい時間をちゃんと過ごしていた。

 例えばアレは………

 「…山田さん?何してるの?」

 回想しようとしたら、頭上から声が聞こえた。控え目な、それでいて凛と響く聞き覚えのある声。慌てて顔を上げて腰を浮かしながら振り返ると、視線の先には黒髪ロング。

 そこにいたのは、山野先輩だった。

 スラッと整った目鼻立ち、日焼けなんて異空間の代物だと思わせるような白い肌、そして何より目を引く、肩にかかる長さの美しい黒髪。全てを飲み込む漆黒の夜のようでありながら、表面のツヤは日の光を浴びてキラキラと輝いている。

 夜と昼。闇と光。暗黒と玲瓏。

 まるで月夜のような美しさを内包したその髪に見惚れ、私は一瞬呆けてしまう。この姿を見れば、山野先輩を「お姫様」と呼びたくなる気持ちも理解できる。それほどまでに、この人は綺麗だ。同性の私から見てもこの魅力なのだから、男子の目にはどれほど照り映えて写るのだろうか。

 「山田さん?大丈夫?蹲っていたけど、体調悪いの?」

 思考を停止して先輩を見上げていたら、心配する声がかけられる。このビジュアルで性格まで良くて頭脳明晰なのだから、確かに別世界の人間のようだ。

 「…大丈夫ですよ、私は」

 努めて明るく返す、努力はした。ぎこちない笑顔を浮かべているのだろうなと自覚アリだ。見上げている先輩の笑顔がやや曇って写る。そのレベルでやばいのだろうか、私の愛想笑い。

 「それならいいけど。でも、身体キツイなら部活は休んでもいいからね。どうせ誰も真面目に活動してないんだから」

 先輩は階段を下りながら、気遣うように話してくれた。でも、後半はやや怒気を孕んだ口調だ。珍しくその声音からは、いつも感じる余裕のようなものが欠落していた気がした。それだけ本音というか、本当の悩みに近い部分なのだろう。

 私と先輩は文芸部に所属している。本来は自作品の執筆、オススメの一冊の紹介文作成に部員間でのビブリオバトルと、活動内容は結構多岐に渡るのだが、残念ながらそのどれもがマトモに遂行されていないのが現状だ。「全員部活所属が義務」とかいう学校側が制定した誰得制度からの逃げ場所として、文芸部は帰宅部志望の生徒にとっての憩いの場と化してしまっていた。まあ確かに、あれなら別に出席しなくてもいい。

 「心配してくれてありがとうございます。でも本当に大丈夫ですよ。外の空気吸ったら気分悪いのも治まりましたから」

 呼吸をするように嘘をついた。ぼっちで居場所がないからとか口が裂けても言えない。

 「そう?じゃあ来てくれると助かるかな。山田さんが来なかったら、文芸部としての面目さえ危うくなっちゃうから」

 先輩は茶化すように笑いながらそう言い、階段を降りきって私の横に並んだ。目線を合わせて目の前で見ると、より一層黒髪の美しさに視線が吸われる。サラサラと風に揺られる黒い糸を、思わず手で撫でたくなった。一瞬ピクリと右手が反応したが、慌てて自制する。この人に触れようとか、自殺行為だ。後で先輩のファンからどんな制裁を受けるか、分かったものではない。

 「先輩は…どうしてこんなところに?ここに来るの面倒でしょう?」

 左手で右手を包みながら、私は気を紛らわすために話題を振ってみた。単純に、何故先輩がこんな人目につかない場所に来たのか、気になったというのもある。

 「もしかして、発表会で緊張しているとかですか?」

 当然ながら、先輩は今日の代表発表者に選ばれている。プログラムでは、二年生なのに大トリを任されていた。発表順はくじ引きだと思うのだが、この人の場合だとそれ以外にも意味を孕んでいる気がしてならない。

 「………別に、そんな大した理由はないよ。今日はちょっと風に当たりたかっただけ。発表会に関しても、ちゃんとリラックス出来てるから大丈夫」

 先輩は私の質問にゆるゆると首を横に振りながら、何でもないことのように答えた。まあ実際そうなのだろう。この人は、私なんかでは及びもつかない場所にいて、そこからセカイを見下ろしているんだ。私とは、根本的に違う。

 「本当は部活の時に渡すつもりだったんだけど、丁度いいから今渡しちゃうね」

 先輩は勝手に憂鬱になった私のことなど意にも介さず、ポケットをゴソゴソと漁り始めた。そしてそこから、一冊の本を取り出す。

 「はいこれ。前に興味あるって言ってたよね。家の中探したら残ってたから」

 「あっ……ありがとうございます」

 差し出された本には、確かに私が以前先輩に話した表題が印刷されている。わざわざ探してくれたのか。本当に良い人だな。

 しかしそう思いながらも、私の目は本ではなく、その本を持つ先輩の手に惹きつけられていた。健康的な白さを帯びたほっそりとした手首は美しく、まるでこの世のモノとは思えない。

 差し出された本を受け取るためにおずおずと本に手を伸ばすと、指の先端が微かに先輩の手に触れた。柔らかくて、ドキドキする。

 でもその女性的な感触の中に、一つ違和感が混じっていた。

 振動。

 先輩の手は震えていた。見た感じでは分からないが、触れた指先は確かに手がピクピクと小刻みに振動しているのを感じた。

 今日はそこまで寒い日ではない。先輩は別に極端な冷え性でもなかったはずだ。それなのに、人間離れした美しさの手は震えを止めない。

 「うん?どうかした?これじゃあなかったっけ?」

 本を握ったままの私を先輩が不思議そうに見つめ、小首を傾げながら聞いてくる。その声に顔を上げると、視界に飛び込んできたのは全てを飲み込むような黒髪。柔らかく吹いた秋風に煽られるその黒い細線を見た時、私の頭の中に一つの光景がフラッシュバックした。

 私は、この姿に見覚えがある。

 いや、違うか。聞き覚えがあるんだ。

 「……あの先輩、つかぬ事をお聞きしますが…」

 心の中に芽生えた確信を口に出すことは躊躇われた。突拍子もないことだし、もし違っていたらとても恥ずかしい。でももしも、私の考えが当たっているのなら、このままにしてはおけない。

 私は覚悟を決め、笑顔を浮かべている先輩を正面から見据えて口を開いた。



 「先輩は、吸血鬼なんですか?」

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