第8話 そして(曽、景)
そして、曽根崎さんとの約束の日がやってきた。今日僕は、彼が唯一花束を贈るという女性に会いに行く。
会いに行く、が……。
「……何着ていけばいいんだよ……」
僕は姿見の前で、ほとほと参っていた。スーツ?気合い入れ過ぎだろ。いつものパーカー?ラフ過ぎるだろ。いや、そもそも僕の立ち位置がわからないんだよ。ただのしがないアルバイトだよ僕は。まあ、ちょっと雇い主に三千万の金借りてたり、勝手に錨にされてたり、そういうシガラミはあったりするけれど。
数分悩んだ挙句、重すぎず軽すぎずのカジュアルなシャツを着用することにした。この格好、ちょっと藤田さんに寄るからあんまりしたくなかったのだが、この際仕方がない。
僕は、いつもの鞄を背負うと、ドアを開けた。
「やあ。今日はよろしく、景清君」
事務所の入ったビルの前では、見慣れたスーツ姿の曽根崎さんが立っていた。普段と違うのは、左手に白い花束を持っている所。
それを覗き込み、僕は尋ねる。
「何の花ですか?」
「カーネーションだよ」
「相手の方が好きな花なんですか」
「よく分かったな。まあ、それだけでもないんだが」
何となく含みのある言い方である。気に入らないが、追及するのも癪だったので、黙っておいた。
「タクシー使います?」
「いや、今日は電車で行く」
「珍しいですね」
「この日だけはそうすることにしてるんだ。勿論、交通費は全額出すよ」
「ええ、僕今日財布持ってきてないんで、よろしくお願いします」
「君、ホント最近遠慮が無いなぁ……」
そうして曽根崎さんが告げた行き先は、聞き馴染みの無い駅名だった。
若木の匂いと、風に葉が擦れ合うサワサワとした音。改札口が一つしか無いような無人駅で、僕と曽根崎さんは下車した。
「ここで会うんですか?」
吹きさらしのホームに落ちた葉を踏みながら、問いかける。正直、高級ホテルのレストランなんかで会うと思っていたので、肩透かしをくらったような気持ちだった。
曽根崎さんは、改札口に足を強打しつつも僕の質問に答えてくれる。
「この道をまっすぐ行った所だ。少し歩くが、構わないか」
「大丈夫ですよ」
「ありがとう」
そうして、二人で並んで道を歩いていく。休日だというのに、車はおろか人とすら、すれ違わない。過疎が進んだ地域なのだろうか。少し荒れた畑を横目に見ながら、僕はふと浮かんだ疑問を口にする。
「……綺麗な人ですか」
「なんだ突然」
「今日会う人ですよ」
会話が無い道中というのも、つまらないものだ。とりとめのないやり取りでも、無いよりマシである。
曽根崎さんは、顎に手を当てて空を見上げた。
「……綺麗めの人だったと思う」
「なんであやふやなんですか」
「あと、優しい人だったかな。病弱だったけど」
「……」
過去形?
新たに湧いた疑問を解消する前に、曽根崎さんはピタリと足を止めた。
「着いたぞ」
彼の目線の先にあるのは、小規模な墓地。彼は静かに、しかしそれでいてやはり淡々と、僕に事実を告げる。
「――ここに、私の母が眠っている」
そこでようやく僕は、曽根崎さんに花束を捧げられる人の正体を知らされたのだった。
しゃがみこみ、両手を合わせていた曽根崎さんは、その体勢のままそっと目を開けた。
「……中学生の時だったかな。元々長く患ってはいたんだが、いよいよ体力がもたなくなった。母は、五度目の手術の最中に息を引き取った」
だから、曽根崎さんは母の死に目に会えなかったという。とはいえ、当時殆ど一人暮らし同然の生活をしていた彼は、そうなることも覚悟していたそうだが。
持ってきた白いカーネーションが、墓前で柔らかな風に揺れている。同時に漂ってきたお線香の匂いが、鼻をくすぐった。
「母さん、こちら、景清君です」
そして唐突な紹介である。僕は、慌てて頭を下げた。
「初めまして、アルバイトの竹田景清と申します。いつも、曽根崎さんにはお世話になっています」
「私にマメに料理を作りに来てくれている、人がいい大学生だ」
「正直、いつ辞めてもいいと思ってたんですが、最近三千万円の借金をしてしまったので、益々辞められなくなりました」
「願ったり叶ったりです」
「テメェ」
冗談めかして言うオッサンのもじゃもじゃ頭を叩き、僕はふぅ、と息を吐く。ここに来るまでの疲労と、出所不明の気苦労が、空気と一緒に肺から出て行った。
「……曽根崎さん、中学生の時に一人暮らしをしてて、よく生きていけましたね」
「母が、別れた父に連絡をしてくれてな。時々、里子さんと忠助が料理を作りに来てくれていたんだ」
「お父様は今もご健在ですか?」
「健在も健在だよ。アレは手足一本もがれた方が、まだまともな人間になるかもしれん」
曽根崎さんの容赦無い酷評を聞くに、どうやら厄介な人のようだ。恐らく、阿蘇さんに聞いても同じ返事が返ってくるのだろう。どんな人かもっと突っ込みたかったが、その前に曽根崎さんは立ち上がった。
「……優しい人だったが、イタズラ好きな面もあってな」
「お母様がですか?」
「そう。家ではよく死んだフリをして、私を驚かせていた」
「それちょっとシャレにならないでしょ」
「だから、この花を貰った時も、多分そういった類のものが仕込んであるんだろうと思ったんだ」
曽根崎さんの長い指が、白いカーネーションに触れる。
「……これは、最後の手術に挑む前日、母が私にくれた花でもある」
彼の目は、ここではないどこか遠くを見つめていた。
「花言葉は、“ 私の愛情は生きている ” だそうだ」
風が強く吹いた。
思わず目をつぶったが、カーネーションが飛ばされないよう咄嗟に手を伸ばす。曽根崎さんの指が触れるかと思ったが、何の障害も無く僕は花束を掴んだ。
目を開けると、珍しくポケットに手を突っ込んで僕を見下ろしている彼と視線が合った。その目には、不思議なものを見るような色が浮かんでいる。
「……景清君は、つくづくお人好しだな」
「だって大事な花でしょう」
「君が供えた花じゃないのに」
「一緒にお参りしたなら、僕も供えたようなものです。アンタこそもっと執着しましょうよ」
「執着ねぇ」
曽根崎さんは真顔で首を傾げている。
いや、ちょっと感動する話じゃなかったのか、これ。いきなり浮世離れするなよ。
「……相手はもう死んでいる。何も聞こえないし、何も答えない」
「じゃあ何故花を」
「貰ってしまったからだ。母が生きている内に、返し損ねてしまった。それで仕方ないから、毎年こうして花だけ置きに来ている」
曽根崎さんの言葉は、平坦だった。だけど、そこに抱えた見えない寂しさに、僕の心が動く音がした。
……置きに来てるんじゃなくて、贈りに来てるんでしょうよ。
しかし、その一言を伝えるには、僕という存在はまだあまりにも未熟すぎる気がした。
だからやはり、僕は彼に憎まれ口を叩く。
「……お母様も、まさか自分の息子が、小学生に問答無用で防犯ブザー鳴らされる不審者面に育つとは思ってもみなかったでしょうね」
「思わなかっただろうなぁ。まあ、仕方がない。結構伸び伸びと生きてきてしまったんだ」
「伸び伸びと生きたら、みんな曽根崎さんみたいになるんですか」
「なるぞ。大体なると思う」
「なりませんよ。そんなおぞましいクローンが世間に蔓延ってたまるか」
「母の墓前で人をおぞましいとか言うな」
「っていうか、なんで僕をここに連れてきたんですか?」
そういや、これが本題である。何故、阿蘇さんでもなく、父親でもなく、僕をここに連れてきたのだろう。ただのしがないアルバイトである、僕を。
それに曽根崎さんは、棒っきれのように立ったまま、ぼそりと答えた。
「……私が死んだら、この墓に入ることになる」
死という言葉に、心臓がドキリとした。
しかし彼は、僕の表情に構うことなく続ける。
「私を取り巻く環境は特殊だ。だからもしかすると、君に別れを言えないままに死ぬ運命を辿るしれない。そうなった時に、君はどうする?」
「どうするって……」
「あいにく、私は君がどんな反応をするかなどサッパリ想像がつかない。だけど、もし何か私に伝えたい事が残っていたなら、ここに来るといい。花でも菓子でも携えて、呆れながらでも怒りながらでも、言いたい事を言うといい。……墓とは、そういう場所だ」
「……」
――まただ。
展望台で見た時のように、僕は曽根崎さんの存在感が薄く揺らぐのを感じた。
正気と狂気の狭間に身を置くこの人は、僕などより遥かに死に近い場所にいる。何者かに背を押されれば、呆気なく深淵に落ちかねないほどに。
「曽根崎さん」
「なんだ」
カーネーションから手を離し、彼に向かって腕を伸ばす。しかし、曽根崎さんはそれに気づかない。
僕はグッと拳を握って、その手を下ろした。
「……聞きますが」
「どうぞ」
「――逆に僕が先に死んだら、どこの墓に入ればいいのでしょうか」
あ、という顔をした。
僕を振り返った曽根崎さんは、いつもの彼に戻っている。
「ありえなくはないでしょう。この間だって、状況次第では相当ヤバかったんですから」
「確かに。極力君の命を守ることを優先するが、忠助の流れ弾で死なないとは限らないもんな」
「阿蘇さんは巻き込みたくないなぁ……。とにかく、僕は両親とはもう関わりたくないですし、同じ墓に入るつもりもありません。そうなると、僕が死んだ時に入る墓が無い」
「……えーと、入る?」
「流石にそれは……。お母様びっくりしますよ。何故お前がって」
曽根崎さんは親切にも自分の入る墓を指差してくれたが、僕は首を横に振った。
そして、彼の目を見て言う。
「……生きていきましょうよ。まだ、お墓の心配はしたくありません」
「……」
「でなきゃ、もういっそ入るのが楽しみな墓でも作ります?がっつり幅取って、綺麗な三角錐にして、中に棺を安置して」
「ピラミッドだな、それ」
「墓荒らしが来たら、隠れていた曽根崎さんが呪文を唱えてくださいね」
「呪いのオマケ付きか。しかしその案だと、私はずっと君の死体を見守ってなきゃいけなくなるな」
「いけませんか」
「いいと思うか」
「じゃあ、頑張って生き延びることにします。曽根崎さんもお願いしますね」
「うーん……」
「返事!」
「はい」
よし、ひとまず同意は引き出したぞ。これで多少寿命は伸びたんじゃないかな。
僕は伸びをし、曽根崎さんに笑いかける。
「そろそろ帰りましょう。お腹空きました」
「確かにな。何が食べたい」
「今日はファミレスの気分です」
「この辺には無いな。よし、タクシーを呼んで帰る道すがら探そう」
「帰りは使うのかよ、タクシー」
ツッコミながら、チラリとお墓を振り返る。そして、今は亡き曽根崎さんの母に向かって、小さく頭を下げた。
――本当に優しい人だったのだろう。できることならば、自分の息子の成長をずっと見守りたかったに違いない。
だからきっと、あんな花言葉を持つ白いカーネーションを残したのだ。一人残される彼が、その花を見るたびに彼女の愛情を目で確かめ、思い出せるように。
「景清君、行かないのか?」
曽根崎さんが、少し遠くの方で僕を呼ぶ。僕は返事をして、早足で彼の元へと急いだ。
穏やかな風が、白いカーネーションの花束を包んでいた。
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