第3話 恋をした事がない僕だけど(曽、景、阿、藤)
“ 恋とはどんなものかしら ”
モーツァルトの傑作オペラ、フィガロの結婚の中に出てくる挿入歌の一つである。
軍隊に行くことが決まった美少年が、憧れの伯爵夫人の前で恋心を歌ったものであるが……。
「自然とため息が出て、理由も無く胸が高鳴る、ねぇ……」
事務所のソファーに腰掛け、スマートフォンで検索した歌詞を眺める。どうにも解せない感情がつらつらと綴られた甘いポエムは、ただ目が滑るばかりで全く頭に入ってこなかった。
これが恋だというならば、確かに僕は恋をしたことがないのだろう。僕は、片肘をつきながらスマートフォンの表示を消した。
そして、たまたま遊びに来ていた叔父に質問を投げかける。
「藤田さん、恋したことってありますか?」
「突然何?」
彼の名は、藤田直和。僕の母の弟で、阿蘇さんの幼馴染だ。端正な顔立ちをしており、人当たりも良い人であるが、その本性は老若男女問わず抱けると豪語して憚らないまあまあどうしようもない人間である。
とはいっても、そんなに愛多き人生を歩んできたのならば、恋の一つや二つの説明ぐらいできるだろう。僕はソファーに座り直すと、コーヒーを入れていた藤田さんに体を向けた。
「恋ですよ、恋。少女漫画でお馴染み、トキメキ壁ドンファーストキッスのアレですよ」
「いや知ってるよ。むしろ景清も知ってるだろうから、なんで今更そんな事聞くのって話」
「……ないんです」
「ん?」
「……恋をした事が、ないらしいんです」
「……ふぅん?」
藤田さんは、理解しかねるといった様子で首を傾げた。しかし、真面目な僕の表情を見て、何も言わずに向かいのソファーに座ってくれる。根は真摯な人なのだ。
コーヒーを一口飲み、熱さに顔をしかめながら彼は言う。
「むしろよく気づけたね、そんなの」
「この間、柊ちゃんに看破されまして」
「ああ、あの子そういうの聡いからなぁ」
「21になって恋した事ないとかありえます?今まで何人とも付き合ってきたってのに。自己嫌悪と羞恥心で、もう半分ヤケになりまして」
「はい」
「今、片っ端から恋愛に関する情報を集めている所です」
「努力家の甥が暴走している」
藤田さんは、苦そうなコーヒーをテーブルの上に置いた。そして、僕に尋ねる。
「で、成果はあった?」
「たとえあなたが最果ての岸辺にいても、手に入れるためなら危険を冒しても海に出ます」
「どうしたの」
「ロミオとジュリエットです」
「マジでびっくりするから、前置きぐらいはしろよ」
「惚れて通えば千里も一里、逢わで帰ればまた千里」
「それは?」
「都々逸です」
「何かピンとくるものは?」
「特には」
「重症だ」
大袈裟に両手を頭に当てて、藤田さんは天を仰いだ。……ピンと来ないものは来ないんだから、仕方がない。僕は、不満げに息を漏らした。
「そういう藤田さんはどうなんですか。恋」
「あるよー、一億回あるよー」
「僕は本気で聞いてるんです」
「恋だろ?一緒にいて楽しくて、気持ち良くて、また会いたいと思えばもう恋だよ」
事も投げに藤田さんは言う。そんな簡単なものなのだろうか。
「また会いたい、ですか」
「うん」
「それ、友達とは違うんですか?」
「一緒だねぇ」
「一緒なのかよ」
「いい?景清。百人いれば百人の恋の形があるよ。オレの恋も景清の恋も、全く違う価値観なんだ。だから、オレにとってみれば、景清も阿蘇も曽根崎さんも柊ちゃんも恋人だ」
「嫌な認定聞いちゃった」
「よし、叔父さんと恋人ごっこする?」
「何がよし、だよ。するわけないだろ」
通常運転の親戚に呆れ果てながら、僕は席を立つ。そして、空になった彼のカップを手に取った。
「おかわりは?」
「欲しい」
「じゃあ入れてきますね」
「ありがとう」
キッチンに行き、ガラスポットからコーヒーを注ぐ。香ばしい香りが、ふわりと鼻をついた。
その匂いに誘われるように、藤田さんは口を開く。
「……カフェインには、交感神経の働きを促す効能があるらしい」
「へぇ」
「そして、人間は行動に支配される生き物だ。よく、やる気を出すにはやり始めるしかないって言うだろ。理由に行動が伴うんじゃない。行動に理由が伴うんだ」
「……何を言いたいんです」
藤田さんは、人差し指でトントンと自分の頭を叩いた。
「つまり、コーヒーを飲んだからドキドキしているだけなのに、目の前の相手に恋しているからなんだって、脳が取り違える事がある」
「……」
「頭で考えるんじゃなくて、自分の行動を見てみろよ。案外、お前の行動から恋は生まれるのかもよ」
藤田さんなりに、真面目に回答してくれたらしい。僕はお礼を言い、頭を下げた。
行動か。
……行動か……。
「……そういえば僕、最近まともに女の子と関わってないな」
「若い身空で可哀想に。文学部なら女の子選び放題じゃん」
「酷い偏見があったもんだ。なんか最近、声をかけられる事が減ったんですよね」
「あれ、気づいてないの?お前それ多分……」
藤田さんが何かを言いかけた時、ドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。……あんな上り方をする人なんて、僕の知る限りでは一人しかいない。藤田さんと答え合わせをする前に、その人物はドアを開け放った。
「クソ兄ーーーー!!今日という今日は絶対許さねぇぞ!!」
阿蘇さんである。
全身から怒気を立ち上らせる彼に、僕は少し距離を置いて告げた。
「……曽根崎さんならいませんよ。今、銀行に行ってます」
「嘘だろ!?こんな時に!?」
「何かあったんですか?」
「曽根崎案件の事でちょっとな。あー、まあいいか。困るのはあっちだ、うん」
何やら無理矢理自分を納得させて、藤田さんの向かいにどかっと座る。よくわからないが、多分聞いた所で僕では解決する事はできないのだろう。
お湯を沸かし、彼の為にココアを入れる事にした。
「……阿蘇さん」
「ん?」
お湯が沸くまでの間、そして藤田さんにコーヒーを持っていくついでに、僕は阿蘇さんに問いかける。
「恋って何ですか?」
「……ええー……」
藪から棒に飛び出した質問に、阿蘇さんは面食らっているようだった。しばらく悩み、藤田さんに顔を向ける。
「こういうのは、お前の方が答えられるだろ」
「オレはもう答えたよ。次は阿蘇の番」
「番とかあるのか。いや、それよりどうしたんだよ景清君。授業のレポートで使うアンケートとか?」
「いえ、そういう事では……。実は先日、僕は恋を知らないで生きてきたという事実が判明しまして」
「マジか」
「マジです」
「……大変だな」
「なので今、少女漫画からシェイクスピアまで文献を漁り、恋とはどういったものかを調べているんです。この謎の感情の正体を掴み、いつか必ず恋心を抱いてやろうと目論んでいます」
「オイ、甥が暴走してるぞ」
「かわいいだろ。真面目で」
「お前も大概叔父バカだよな」
何と言われようと、僕は真剣である。そんな僕の本気に気づかない阿蘇さんではないので、目を閉じ顎に手を当てて考えてくれた。
「……衝動、だと思う」
そうして彼の口から語られたのは、意外な回答であった。
「衝動ですか?」
「うん」
「どういうことです?」
「こう、理屈じゃねぇんだけど、ふとした瞬間に無性に抱きしめたくなるんだよ。自分の物にしたいのかな。ワッと感情が湧き上がって、次にはもう行動してる」
「ワイルドだ」
「そうか?恋なんてこんなもんだろ、大抵」
こちらもまた、藤田さんとは違った価値観である。興味深く拝聴していたが、しかし藤田さんの方が前のめりになって聞いていた。
「阿蘇、お前そんな情熱的なヤツだったのかよ……!」
「そりゃ藤田に見せるワケねぇからな」
「教えろよ!そして実践しろ、オレに!」
「バカかお前。前提条件よく思い出せ」
「見たい!なぁ、景清からも頼んでみてくれよ。いやもうオレじゃなくていいからさ、見せるだけ見せてくれ。彼女ができたら常にオレを呼んでだな……」
「景清君、ちょっとそこの窓開けろ。コイツ放り出す」
「流石に二階から落とされたらそれなりに怪我するんで、やめてあげてください」
それから三十分ほど阿蘇さんは曽根崎さんを待っていたが、結局諦め、帰ることにした。藤田さんも足が無いので阿蘇さんに送ってもらうと決めたらしく、ドアを開ける阿蘇さんの後ろをついていく。
「そんじゃあな、景清君」
「はい、今日はありがとうございました」
「一人寝が寂しくなったらオレを呼ぶといいよ。どこにいても駆けつけてあげる」
「わかりました、剣山仕込んどきますね」
「布団に入った瞬間、オレは血まみれになるの?」
ドアが閉まり、二人の姿が見えなくなる。足音が緩やかに遠ざかり、会話する声も聞こえなくなっていく。
事務所に静寂が戻り、僕は一人ぼっちになった。
「よし、行ったか」
「わぁぁぁぁ!!?」
突然ドアが開き、曽根崎さんが入ってきた。驚きで腰を抜かしそうになったが、なんとか堪えて説明を求める。
「何ですかアンタ!?」
「帰ってきたはいいものの、忠助がいたからな。一旦三階に身を潜め、事務所から出て行くのを待っていた」
「阿蘇さーん!曽根崎さんが帰ってきましたよー!」
「呼ぶな呼ぶな。戻ってきたらどうするんだ」
「然るべき責めを受けるべきだと思います」
「絶対に嫌だ。怒った弟は本当に怖いんだ」
「情けねぇ兄だな!」
とはいえ、そんな怒髪天を突く阿蘇さんを間近で見る勇気は僕にも無く、大人しく引き下がる事にした。曽根崎さんは、僕にお茶を入れるよう要求すると、パソコンの置かれた事務所机の椅子に座る。
「……恋を知らないのか」
聞いてやがったな、このオッサン。
一番アテにならないだろうと踏んでいたので、元より尋ねるつもりはなかったが、こうなれば仕方がない。
「ええ、知りませんよ。よくわかりもしません。手当たり次第調べてみましたが、皆目検討もつきません」
「そう不貞腐れるな。私もそうだったよ」
「そう、とは?」
「恋とは何か知りたくて、軽く論文を書けるぐらいは調べ上げた」
「そっち!?」
嫌なシンクロである。いや、本当にそうなのか?適当に話を合わせてるだけじゃないのか?
確かめる為に、彼を試す言葉を差し出した。
「……君の小鳥になりたい」
「そうしたいけれど、かわいがりすぎて殺してしまう」
「夢で見るよじゃ惚れよが足りぬ」
「真に惚れたら眠られぬ」
「会うに会われぬその時は、この世ばかりの約束か」
「三途の川は堰く人も、堰かれる人もござんすまい」
「思へどもなほぞあやしき逢ふことの」
「なかりし昔いかでへつらむ」
……あれ、ちょっと前に似たような事をやった気がする。いいや、気のせいだ気のせい。
曽根崎さんは僕からお茶を受け取りながら、呑気に言った。
「気が合うな」
「そういう話ですか?」
「まあ、今の内にせいぜい悩むがいいさ。それも若さの特権だ」
「えらく上から目線ですね……。それで、曽根崎さんは何か分かったんですか?」
「ああ、うん、私は……」
そこで曽根崎さんは、自分で言葉を遮るように、長い人差し指で唇に蓋をした。
「……なんですか?」
「……秘すれば花なりと言うだろう」
「それは芸事の話でしょう」
「ならば、花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは、だ」
「兼好法師ですか?」
「そう。全ては情緒だよ。相思相愛の恋も素晴らしいが、始まらぬ恋もまた恋だ」
「……どういう意味です?」
彼の言いたいことが、さっぱりわからない。まるで老熟した教授に指導されているようだ。何かいい事を言っている気がするが、その真意が全く見えてこない。
とはいえ、僕も恋が何たるかは知りたい。現役文学部生のプライドをかなぐり捨てて、曽根崎さんにその意味を尋ねた。
すると彼は、静かに笑いながら言った。
「……知らざるを知らずと為す、是知るなり」
「はい?」
「つまりだ。恋なんざ、私には何もわからない」
時間を返せこの野郎!!
僕は曽根崎さんに殴りかかったが、ヒョイとかわされてしまった。
「そう怒るな。仲間だろ」
「誰が!仲間だ!」
「恋知らぬ仲間だ。あれから色々やったんだがなぁ、結局恋とはよくわからなかった」
「曽根崎さん、人に寄り添うって事ができなさそうですもんね」
「恋をすれば、寄り添えるようになるのかな」
「まあ今よりマシにはなるんじゃないですかね」
「そうか」
既に笑いを引っ込めた曽根崎さんは、僕の蹴りを椅子を使ってしのいでいる。
その中で彼は、さっぱり状況に似合わない、少女漫画に出てくるようなセリフを吐いた。
「――だったら私は、私が恋をするその日を、楽しみに待ってみる事にしよう」
「……もう31でしょ、アンタ」
「言うな。辛くなる」
そう言ってはみたものの、彼の一言はひどく腑に落ちた。
そうだよな、これからなんだよな、僕は。
恋に憧れ、羨み、その先でいつか湧いてくるといい。
一つの結論に胸を落ち着かせながら、僕はひとりごちた。
「……まずは借金の返済からですね」
「恋に障害はつきものというだろう。一生懸命返しなさい」
「ウゼェ」
むしろ、一番の障害となるのは、案外この人なのかもしれない。
複雑な感情を込めながら、僕は目の前のもじゃもじゃ頭に軽い平手を打ち込んだのだった。
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