「白い花と朱い花」
空はすっかり晴れていた。玄関を出て階段をおりると、取り残された雨の匂いに混じって甘い芳香が身を包む。アパートの門を挟むように植えられた庭木は今年も綺麗に開花したようだ。あと数日もすれば白い八重咲きの花が門を彩るのだろう。
友人は、茜色を映してきらめく水たまりをぱしゃりと踏んで、行く先へと足を向けた。
「寝床くらいは貸すのに」
「あいにくだが遠方に出向く用があってなー、これから夜行バスよ」
「仕事かい」
「おうとも」
友人は手品師だ。ただし売れてない。
「そういやお前さん、」
「?」
「すっかり忘れていた、とかぬかしてたわりにちゃんと解いてたじゃないか。学生からの挑戦」
「え?」
「学生の創作で、解いてくれと挑戦受けてたんだろう? あんなにスラスラと解答してみせたのだからさては喧嘩を買ったときにはすでにたどりついていたな? 真犯人へ」
「ああ、うん……まあね。喧嘩でも挑戦でもないけどね。鍋島が見つけなければきっとずっと忘れていただろうから、正直助かった」
「教え子達と仲良くやっているようでよきかなよきかな」
かっかっか、と時代劇じみた笑い方をして、友人――鍋島は肩をすくめた。
「篠はけっこうめんどくせー性根してるからなァ?」
「次からは野宿でたのむ」
「後生だからそいつはやめてくれ」
真顔になって拝む鍋島をひとしきり笑って、
「土産を納めてくれたら考えるよ」
「がってん承知」
そこで会話が途切れたことを合図に、鍋島は今度こそ背を向けた。
「んじゃ行くわ」
特に言葉は返さず、ただひらひらと手を振る。今生の別れでもなし、いつものように季節をいくつかまたいだ頃にまた姿を見せるに違いない。次第に遠ざかる下手くそな口笛を聞きながら部屋に戻ると、タイミングを見計らったかのように着信が響いた。妹からだった。
「もしもし。……ああ、ああ、大丈夫。何事もない毎日だよ」
こちらの近況を気にかける挨拶から始まるのは何年経っても変わらない。
「……うん、そんな時期だね。そうだっかな……。お盆には帰って俺も母さんに会いに行くよ」
ふわりと香水の香りを嗅いだ気がして振り向く。気のせいか、とも思ったけれど、ふと自分の袖を鼻先に近づけてみた。案の定、熱にうかされたような濃い芳香がまとわりつく。玄関先の白い花。早くも移り香をもらってしまったらしい。この時期はよくあることだ。なかなか消えないので、香水でもつけているのかと学生に聞かれたこともある。
「え? 兄さんが命日に? へえ、珍しい。うん、……うん。ああ、父さんによろしく伝えておいて。じゃあ、元気で」
そういえば、あの朱色の花も、甘い香りだった。
そんなことを、どうしていまさら思い出したのか。ネクタイもしていないのに息苦しくなって、胸元を開ける。
しこたま酒を飲んだくせに、花の香りが一層酔いを深める。ふらふらと倒れこんだ先で目に入る一枚の紙片。その一文。
『母を殺害せしめたのは誰か』
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