第35話『誰かの夢』

 だんだんと透明になる空。雲は遠くなり、風が青ざめていく。それらは木々から葉を奪い取り、人々に厚い服をまとわせる。もうすぐ息が白くなるだろう。


 生物の活動が段々と低迷する一方で、活発そのものに動く少年がいた。ムハンマドは木馬の上で逆立ちを繰り返していた。この木馬も、この逆立ちの技も、ダヴィから与えられた。片足が動かない彼にとって木馬に近づくことは億劫おっくうなことに違いない。


 だが、宙でさかさまになった時だけ、彼は世界一自由になった。


「寒くないか」


 ノイが近づいてきて低い声で尋ねた。少ない言葉数。それでも他の人には言わない。保護者として一緒に暮らしているムハンマドにだけ会話が成立する。


 木馬にまたがるムハンマドは見上げる。玉のような汗がいくつも彼の幼い肌に輝いている。巨漢のノイは太陽を隠しながら、彼にタオルを差し出した。


「ありがとう。結構うまくなったんだぜ。見てよ!」


 ムハンマドはもう一度逆立ちをした。初冬の空に伸びた姿は、その足がまともに歩けないことを忘れさせる。ノイは大きく頷いた。


「なんだよ。褒めてくれたっていいじゃないか。ダヴィは『すごいすごい、天才だ』って言ってくれたぜ」


 ダヴィは不器用な子供だった。なかなか芸が出来ず、サーカス団ではお荷物的存在だった。それに比べたらムハンマドの覚えは素晴らしい。いや、比べなくても彼の習得は早すぎる。


 小さな体に自信があふれている。部屋の隅で杖を握ってうつむいていた彼はもういない。ノイはそれが何よりも嬉しい。世界全てを憎んでいた自分の子供のころとは異なる。


 少し暗い顔をしていた彼に、ムハンマドは問いかける。彼の表情をすぐに判別できるのはこの少年だけだ。


「羨ましい? ノイに教えてやろうか」


 その意図は勘違いしたが。無邪気に笑うムハンマドの頭を撫でて、ノイは木馬に手をついて、ためらうことなく逆立ちした。巨大な両足が青い空に伸びる。


「すげえ!」


 ノイは考える。自分はこの子に何ができただろう。最初は同情心から養ってきた。今は違う。この子の将来を作りたい。友情や親心が混ざった感情が芽生えている。だからこそ、自分の役割に不安を持つ。嫌悪の中で生きてきた自分が育てられるのだろうか。


 しかしその心配は無用だ。ノイを見つめるムハンマドの目には憧れが灯る。


「やっぱりすげえな」


 逆さまになったノイは知らない。ムハンマドはノイの大きな背中を見て成長している。


 ――*――


 教会の一室に重い空気が流れている。常に静かな空間ではあるが、今日は赤い感情が漂っている。ここにいるのは三人だけ。


 ダヴィは直立不動のまま、アニエス聖子女とカリーナ典女の前に立っていた。彼の椅子は用意されているが、今日は座るべきではないと気付いている。


 彼の長々とした言い訳を聞いて、カリーナはようやく鋭い視線を外してため息をついた。


「ご事情はよく分かりました。もう取り消せないことも」


「一時期、聖子女様をお守り出来ないことをお詫びします」


「いえ、そういうことではないのですが……」


 口ごもるカリーナ。アニエスはダヴィを椅子に座るように促し、細い手を伸ばして彼の手を握る。


「必ず戻ってくるのです。挨拶だけし申せ」


「分かりました」


 と言ったが、アンナ女王がそれだけで満足するとは思えない。しかし余計なことを言うと悪い雰囲気が再燃すると思って、ダヴィは口を閉じた。彼女の白い手を優しくさすり、彼女の膝へ戻した。アニエスの頬がほんのり赤くなる。


 ダヴィはアニエスに語り掛ける。


「俺はあなたの傍にいます。俺の部下や臣民たちも。ご安心ください」


「……ひとつ聞いてもよいか」


 アニエスの顔がダヴィを向く。頬にかかる銀色の髪を整えて、閉じた瞼でダヴィに問いかける。


「今まさにゴールド国を制圧しようとしている。制圧とは、すなわち戦争である。その戦場におもむいてはおらぬが、多数の犠牲は出ていることだろう。ゴールド国は最初から敵対しているわけではない。これは征服というべき行い。この戦争の理由を余に申せ」


 傍らで立つカリーナは息を飲んだ。いつも仕える彼女が平和を想って悩んでいたことを薄々気が付いていたが、ダヴィを信用して口には出さなかった。ようやく彼に対して直接尋ねる。


 彼女の迷いは彼女に仕えた修道女の手記にも色濃く残っている。『この世に正しさを貫くことは難しい。戦いは続き人々は傷つく。ああ、聖下といえど無力なり』


 この対話が不調に終われば、アニエスとダヴィの蜜月が終わる。ダヴィもその重要さを理解して、言い訳を探そうとした。だが止めた。アニエスの顔をじっと見てよどみない言葉を伝える。


「俺は大勢の人を殺しました。ゴールド国を征服するために。これからも人を殺します」


「…………」


「それは未来のため。戦争のない世界を作り、国境のない統一国家を築く。同一市場を形成し経済を発展させて、貧困や飢餓を無くす。その理想のために俺は動いています」


 オッドアイを大きく開き、アニエスに伝える。大きな犠牲を払っても大義のために進む。これが王となったダヴィの姿だ。


 カリーナはその力強い言葉に頷く。正円教の中心人物である彼女は、きれいごとだけで世界が動かないことを知っている。飢饉や災害に苦しむ人々は聖女様への信仰だけでは救うことができない。この世界のシステムを変えて危機に対処する。壮大な彼の野望は人々の救済に悩む彼女たちの想いを叶えるものだ。


アニエスは少しの沈黙の後、ダヴィにお願いした。


「大義のために犠牲となる、今を生きる者を思いやってくれ」


「できる限り」


 今度はダヴィからアニエスの細い手を握る。ごつごつとした手だ。剣を握って戦い続けた手。これからも戦い続けるだろう。


「この手で世界をまとめるつもりか」


「違います。皆の手で世界を変えてみせる。そこにはアニエス様のこの手も」


「分かった。信じている」


 強く手を握る二人。世界の頂点に立つ二人。彼らでもこの世界を変えるには並々ならぬ努力が必要だ。立ちはだかる敵も多い。


 それでもダヴィとアニエスは立ち向かう。二人の背中を見て生きる人々のために。

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