第34話『西へ西へ』

 大陸西部に広がるピレン山脈は、古くからファルム国が西へ伸長する流れを食い止めてきた。深い山の中には異教徒が隠れ住み、旅人はおろか、軍隊にとっても危険な場所。この山脈は大陸の統一を阻んできた分断の象徴だった。


 その山脈を越えてウォーター国の中央部の城・リヨン城に、ハリス軍の武官・ペトロがいた。城の一室の南側バルコニーに椅子を出して座り、腕を組む。眉のない顔は西へと向く。頭の後ろで結んだ髪にあたる西風が、ファルム国で感じる風とは違う。海からの湿気を含んでいる。


「ここにおられましたか」


 イオがバルコニーに入ってきた。彼女のフードが風で飛び、髪の毛一本もない頭がむき出しになる。イオは風上をにらむ。


「不快な風です。ああ、なんと野蛮なのでしょうか。風ばかりではありません。人民も司教でさえ、あまりにも未熟です。教会をご覧になりましたか? 正当な手順を踏まずに、祭壇の近くには地元で想像された『聖獣』という名の化け物を祭る始末。あんなに品の無い儀式は初めて見ました!」


 まくし立てる彼女に、ペトロは無感情な視線を向ける。


「それで、何か用か」


「……ごほん、失礼。ハリス様がお呼びです。この国の首都・パランに攻め込む準備をしたいと」


 ファルム国は圧倒的な軍事力を以ってピレン山脈を越えて、ウォーター国に攻め込んだ。城は数日前に占領したばかりである。同盟国と思っていたファルム国に攻め込まれて、ウォーター国は大混乱に陥った。この城の城主も、首を斬られた後も、訳が分からないという顔をしていた。イオは手を組んで祈る。


「ハリス様は偉大です。この野蛮な国を正す機会を与えてくださった。この不快さも、聖女様が与えてくださる試練」


「聖女様か……」


 ハリスが宣言した『聖女様の御意思』は、『ハリスが率いるファルム国が未熟なウォーター国とヌーン国を統治するのが望ましい』という主張だった。その解釈や理屈付けはイオやサロメが創作した。その理論は国王を説得して、反対する貴族たちを無理やり従わせ、民衆を熱狂させた。その結果、短期間での遠征開始が可能となった。


 しかし彼は知っている。ハリスは(聖子女様に気に入られるように力を持ちたい)と思っただけなのだ。その矮小な思いを装飾するのに、宗教はあまりにも便利だ。


(『聖女様』とは使いやすい言葉だ)


 過程はどうあれ、ペトロは満足していた。ハリスに強大な力を持たせることは彼の本願。その機会が素早く訪れたのは僥倖ぎょうこうだ。自分も聖女様を本格的に信仰しようか、考えるべきかもしれない。


「聞いたか。すでにヌーン国から使者が来たそうだ。泣き言を言っているらしい」


「民衆を抑えられないのでしょう。各地で反乱の動きがあるそうです」


 ヌーン国はかつてダヴィが敵対した国。大陸の辺境にあるこの国では正円教ではなく、円一文字教が信仰されている。ヌーン王家をゼロの子孫と位置付けており、その血縁の遠さにより身分が決まるとした。この宗教こそ強大なヌーン王家の権威の元であったが、ゼロの生まれ変わりであるハリスの登場で一気に変わった。ペトロは冷笑する。


「ハリス様がヌーン国に足を踏み入れた途端、信仰熱心な民衆がいっぺんに寝返る。戦いは簡単に終わるだろう」


「ヌーン王はすでに降伏の準備をしているそうですわ。その子供の王子は反発していると聞きましたが」


「どこの王子もくだらないものだ」


 全ての王家を潰し、ハリスのもとで世界を統一する。二人が掲げる理想の中ではヌーン王が生き残る余地はない。“ゼロの敵”として、消えてもらうだけだ。


 それよりも、と彼の顔が東へ向く。


「クリア国がゴールド国を飲み込む。ますます増長するぞ」


 すでに将来の敵として認識している相手の動向は気になる。ゴールド国首都を取り囲んでいる一報は焦りを感じさせる。イオもその点はほぞを噛む思いだ。


「マリアン殿もトーマス殿も甘いですわ。ダヴィ王の中の邪悪なる野望に気が付いていないのです。それなのに友好を取り持って、ハリス様の目をふさいでいる」


 マリアンとトーマスなど穏健派はファルム国内の改革が先だとして、この征西も反対した。ハリス陣営は今や二つに分かれている。だが、ペトロたち過激派は、カギとなる二人を味方につけている。


「サロメはダヴィに操っていた国を滅ぼされた。当然、恨みを抱いている。ハリス様を存分に焚きつけてくれるだろう。それに、クロエ」


 小柄な体に笑顔の仮面を張り付かせている彼女。最近ではサロメよりもハリスの寵愛を受けることが多くなってきた。


「この前ハリス様と面談した際、ダヴィの名前を出した途端、あいつの顔が強張った。調べたら、あいつの父親と兄はダヴィの主君を裏切ったらしい」


「それならダヴィが彼女を恨んでいるのでしょう。逆では?」


「分からん。後ろめたさは時に憎しみへと化ける。そのたぐいだろう」


 ハリスをその気にさせれば、ダヴィもアンナ女王も叩き潰せる。彼の力の怖さをもっとも信じているのはペトロだ。椅子に深く座り、頭の後ろで手を組む。小さくなりつつある秋の太陽を眺める。


「古からの政治は破壊され、新しい世界が作られていく。……楽しくなってきたな」


 ――*――


 一方、クリア国では小さな騒動が発生していた。ロドン城近くの仮設拠点、会議室に使われている小屋で、彼女は問い詰められていた。


「どうしてあんな交渉したのさ! ルツ!」


「自分の主君を、しかも兄を売るとは、どういうことですか!」


 目を三角にしたジャンヌとジョムニに糾弾されるが、ルツは紅茶を飲んで涼しい顔をしている。


「相手の弱みに付け込むのが交渉の鉄則よ。あの女がお兄様に執着しているのは分かっていたことでしょう。私のおかげでゴールド国を丸々手に入れられる。褒めてちょうだい」


「でもさあ、ダヴィが好き勝手されるんだよ」


「無事を祈りましょう」


 もう交渉は終わった。国同士の約束事だ。条件を変更するわけにはいかない。ジャンヌは口を尖らせて、ジョムニはため息をつく。どうすることもできない。彼らはゴールド国併合にまい進するだけだ。


 ルツは一仕事終えた満足感を楽しみつつ、紅茶をすする。ふと、先ほどまで部屋にいた当該者がいないことに気が付く。


「お兄様は?」


 ジャンヌは小屋の外を指さす。


「現実逃避中だよ」


 ――*――


 女性と見間違うほどの美しい黒髪をなびかせて、マセノは基地内を歩いている。

以前と光景が異なっていた。彼が歩くと、兵士たちはさっと避けていく。部下も目を合わせなかった。しかし今では敬礼されるし、部下からは尊敬のまなざしを受ける。

あの事件がきっかけだった。こそばゆい思いだ。


(情けない姿を見せたな)


 そう仕向けた恩人を探す。彼は馬小屋の中にいた。


「ブーケ、気持ちいいかい」


 栗毛をブラシで毛づくろいされて、ブーケはうっとりと目を細める。ダヴィは微笑みながらブラシを動かして胴をなで続けた。


「ここにおられましたか」


 干し草を踏んで、マセノが馬小屋に入ってくる。ダヴィはブラシを止めた。


「お邪魔でしたかな」


「いや、大丈夫だ」


 毛づくろいを止められたブーケが睨む。一般的な馬よりも一回り大きい彼は威圧感がある。マセノは念のため、馬小屋の入り口に立って距離を保った。その場から尋ねる。


「なかなか大変なことになっていますね」


「まったくだよ」


「それで、ダヴィ様はどうされるおつもりですか?」


 ダヴィはこれ以上ない苦い顔をして、がっくりとうな垂れた。


「約束は約束だ。行かないといけない」


「罪な人ですね。好かれないようにきっぱりと断ればよろしい」


「いや、それは……」


 ダヴィはポリポリと頬をかく。こういう事柄には優柔不断になる。アンナの赤くて深い瞳の美しさを思い出す。


「……彼女と話すことは、とても楽しい」


「本当に、罪深いですね」


 呆れるような羨ましいような。そのような女性に巡り合えていないマセノは、自分のモテぶりを差し置いてダヴィに助言する。


「大事な人は一人にした方が良いかと」


「君に言われたくないな……この戦場にいて、どう感じる?」


 目の前の敵に父親がいて、という意味を込めて尋ねる。マセノはつややかな自分の顔を撫でながら、ゆっくりと答える。


「やっと向き合える。長年の片思いの女の子に告白する気分ですよ」


「ドキドキする?」


「とても。逃げ出したいです。でも、花束はもう用意している」


 マセノはニコッと笑った。以前までの演技っぽい笑顔ではない。ダヴィは深く頷く。


「幸運を祈る」


 ブーケも励ますようにいななく。深々とお辞儀を返したマセノは「ダヴィ様にも幸運を」と一言残して去っていった。


 それからしばらく後、まだブーケの手入れをしていたダヴィのもとに、アキレスが駆け込んできた。


「大変です! マセノはスパイでした」


「え?」


 思わず情けない声が出た。目を丸くするダヴィは早口でまくし立てる。


「ゴールド軍に寝返ったか! 彼の思いに気が付かなかったというのか。くそっ!」


「い、いえ、ダヴィ様、違います」


 アキレスは本当に残念そうな顔で答える。


「聖子女様と、それとオリアナ様のスパイです」


「……は?」


「『彼の本音を聞いてこい』と命じられたそうです。マセノが私からダヴィ様に『お気の毒に』と伝えてくれと」


「…………」


「ダヴィ様……」


 青ざめて固まるダヴィ。心中お察しするといわんばかりにうな垂れるブーケ。急に寒さを感じた。まだ冬ではないというのに。

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