第31話『雷雲覆う』

 噂は怖い。それが真実味を含んでいると、なおのこと広がりやすい。秋の日暮れよりも早く、噂の波は人々の心に侵食する。


 マケイン=ニースがクリア国に寝返った、と聞いた。


「誰がそんなことを言った!」


 ニースの屋敷でマケインが叫ぶ。憂さ晴らしに飲んだ酒の勢いそのままに、顔を酒精と激怒で真っ赤にしていた。側近たちが何度もなだめる。


「根も葉もない噂です。じきに収まりましょう」

「その通りです。国王陛下やその周囲から何も言われておりません。無知な民の汚い口から出たもの」

「その噂がどうしてこうも広まる! 陛下から何も言われないのは、疑われている何よりも証拠ではないか! クソッ」


 投げ飛ばしたガラスの瓶が壁にぶつかって砕けた。マケインはドッと椅子に座り落ちる。側近たちは視線を落として直立不動のまま固まった。


 彼は拳を握りしめて、口から怨嗟の声を漏らす。


「誰がもらした……誰が……」


 噂のきっかけは、ダヴィから与えられた多額の“契約金”。それが寝返りの報酬だと噂された。いずれは運搬されてきたことはバレる。しかしその前に王家に半分程度与えておけば、自分の地位は安泰のはずだった。それなのに、あれから数か月しないうちに暴かれる。


 一見はただの取引。金を積んだクリア国の荷馬車はカムフラージュされていたと確認した。すぐにバレないはず。取引の一方が“ばらさなければ”。


(ダヴィが噂を流したか!)


 自分をハメたダヴィに復讐するため、ソイル国を引き込んで自らの後ろ盾にもさせていた。その動きを憎しと思うのは当然。そのために、もう一度騙したのか。


「やはり、あの金を受け取ってはいけなかった……」


 側近の呟きに、再びマケインは立ち上がって激高する。


「今言ってどうする! あの時止めたのか、貴様は!」


「い、いいえ」


「たわけが。金に毒が仕込んであったと誰が気づこうか」


 受け取った金が裏切りの対価と風潮された今、ソイル国との連絡も途絶えた。周囲の貴族からも白眼視される。誰も頼れるものはいない。頼れるのは金庫の中の財産のみ。


「金を使え。兵を雇うのだ。こうなれば己の力で、にっくきダヴィを倒す!」


 ――*――


 マケインは本当に裏切ったのか。会議場の上座に座るゴールド王は半信半疑、というよりも噂は十中八九ウソだと気づいていた。ゴールド国が衰運とはいえ、クリア国では爵位という既得権を否定される。しかも彼の儲けの源である奴隷は禁止されている。彼にとって損でしかない。裏切るはずがない。


 しかしゴールド国宮廷の感情は異様に高ぶっていた。


「おのれ、マケイン=ニース! 卑怯者が!」

「最初からこのつもりだったのではないか。クリア国を恨むふりをして、我らをかく乱していた」

「陛下の信頼を利用したのだ! 許せん!」


 彼らの記憶には、そもそもクリア国を引き込んだのはマケイン。相手の立場が上だったので直接の批判は避けていたが、貴族たちの心には彼の責任を問う怨嗟が渦巻いていた。それがこの件で噴き出したのだ。


 ゴールド王が止めようにも、もう手が付けられない。臣民は湯のごとく沸騰している。


「我らから兵を差し向けるべきだ!」

「待て。目の前にクリア軍がいるというのに」

「まずは使者を差し向けて詰問するのが良かろう」

「それでは遅い。クリア軍と連携して北から攻められたら如何にしようか。ここにおびき寄せて捕えるが吉とみる」


 臣下の激論を前に、ゴールド王は頭を抱える。彼が付いたため息はマケインへの怒りだと受け取った臣下の感情は余計に高まる。


(ダヴィに操られていると分からぬのか)


「陛下、少し……」


 ある側近が歩み寄って、椅子に腰かける王に耳打ちした。王の顔が上がる。


「すぐに向かおう」


 彼が席を立って議場を出て、ある部屋に入る。そこにはソイル国の使者が待っていた。


「急なご面談、承諾いただき痛み入ります」


 初老の使者が深くお辞儀をする。ゴールド王はしっかりと頷いて彼の前の椅子に腰かける。使者は簡潔に時候の挨拶を述べた後、早速本題に入る。


「此度のニース公の疑惑、我が主も把握されております。彼がダヴィ王から金品を受け取った事実もおさえました」


「む……」


 それは事実だったのか。ソイル国が先んじて情報を掴んでいることに屈辱を感じるが、マケインが賄賂を貰っていたことの驚きが勝ってしまった。立派な口ひげを整えて自分を落ち着かせようとする。


「ソイル王はマケインが裏切ったと思うか」


「そこまでの確証はございません。しかし女王陛下は『マケインを信用するな』とおっしゃいました」


「だが……ソイル国まで噂が広まるのが早くないか」


「おそらくクリア国が流したのでしょう。しかしそれを考慮しても、マケインは信用ならない。事実がそれを物語っております。彼への援助は打ち切りましてございます」


 マケインはゴールド国とソイル国のパイプ役を担っていた。彼への援助とはつまり、ゴールド国への支援と同義だ。その点を尋ねると、使者は「ご安心を」と口にする。


「今後は陛下に直接ご支援申し上げます。本日はそれをお伝えしに来ました」


「しかしニースを通らずに、か。陸路を迂回するか、海路でまわるか」


 ゴールド国とソイル国の間にはデンマク湿原が存在する。そこを大量の荷物を抱えて往来することは難しい。唯一と言っていいほど湿原が切れている隙間はあるが、その先にニースがある。ニースを避けて往来することは困難だ。湿原が無い海岸線を迂回するか、海を大回りに船で進むしかない。


 ともかく、ゴールド王にはソイル国からの支援は絶対に必要だ。このマケインへの人民の憤りは、目の前の虎に噛み殺される恐怖が背景にある。パニックになる前に、何とか防ぎたい。


「その支援、いつ頃到着するか」


「すでに物資は調達しております。後は兵士。それが揃えば、海が穏やかになる来春には……」


 その時、部屋の中に侍従が飛び込んできた。優雅な振舞いを求められる宮廷の中で、肩で息をして国王の前にひざまづく。


「ご無礼ながら申し上げます! クリア軍、出陣! リバール城を出ました」


「兵数は」


「二万!」


 ゴールド王は長いため息をついた後、使者に向き直る。


「来春まで我が国が存在する確証を、女王はお持ちかな?」


「それは……」


 沈黙する使者。ゴールド王は自分を奮い立たせる。涼やかな瞳に闘志が灯る。


「己を守るのは、己の力のみよ」


 腹に力を込めて、王は臣下に告げる。ここが正念場だ。


「鐘を鳴らせ。兵士を集めよ。門を閉じ、我が国家の旗を高々と掲げよ! 何人たりともこの城に、この歴史に、足を踏み込ませるな!」

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