第24話『ダヴィ暗殺騒動 下』
ミラノスの一角で発生したこの騒動を、記録している町人がいる。
『……最初は犬の喧嘩かと思った。だが、よく聞いてみると人の怒号だった。「ウッド国のために」という言葉がよく聞こえた。……やがてその声は段々と小さくなった。大雨の音にかき消されていく。その虚しさは、親を亡くした犬の遠吠えに似ていた……』
土砂降りの中、シンの猛攻が続く。雨に濡れる衣服のわずらわしさを感じさせず、一閃二閃と斬撃を加える。ジャンヌは必死になって防ぐ。互いに黒髪と茶髪から水飛沫が飛ぶ。
「小娘! そこをどけ!」
ジャンヌの後ろにダヴィがいる。奴さえ斬れば、奴さえ殺せば、ウッド国は復活する。シンは目を血走らせる。
ダヴィは矢が刺さった肩が痛むのか動けない。仰向けに倒れるダヴィを守るジャンヌは闘志を奮い立たせる。腕に細かい傷は受けても、決してここを通すことは出来ない。
「ダヴィを守る!!」
剣の腕前はシンの方が格段に上だ。それでもジャンヌは気迫で以って防ぎきっている。シンの額に焦りの汗が浮かぶ。
状況は旧ウッド軍が不利だ。彼らが徒歩で、尚且つ数が少ないこともあり、クリア軍の近衛騎兵に圧倒されていく。次々と血を流して地面に倒れていく。シンは後ろから突こうとした騎兵の槍先を切り捨て、彼の足の腱を一瞬のうちに斬った。騎兵は転がり落ちた。
「我が命を以って、必ず殺す!」
シンの死の叫びが届いた。彼女の攻撃でジャンヌの剣が薙ぎ払われる。ジャンヌは短剣を取り出すが、右腕がしびれて持てない。シンは容赦しない。間合いを素早くつめる。
「そこだ!」
ところが、シンの後ろから巨大な影が迫った。彼女は振り返る。ジャンヌが叫ぶ。
「ブーケ!」
ダヴィの愛馬が主人の守ろうと、前足を上げて潰そうとしていた。シンは瞬時に判断して地面を転がる。ブーケの足が落ちる地響きを感じながら、再び起き上がった。
ジャンヌとブーケがダヴィの前に立つ。シンの表情が苦り切る。タイムリミットだ。
「ヨーゼフ! 生き残った者を連れて逃げろ!」
「しかし……」
「私を置いて行け。早く!」
だが、この判断は遅かった。東から馬蹄の音が轟き、一気に反逆者たちを騎兵が取り囲んだ。その数は数百騎。先頭にいるのはクリア軍最強の男。
「ダヴィ様! 大丈夫ですか!」
「アキレス! 遅かったじゃないか!」
と叱るジャンヌの顔がほころぶ。その一方でシンたちの表情は絶望に満ちた。アキレスは馬上からパルチザンを向ける。
「降伏しろ。部下の命を無駄にしたくないのならな」
「…………くっ……」
シンは唇を噛みきり、一筋の血を流す。そして自分の剣を捨てた。「シン様!」とヨーゼフたちが悲痛な声を出すが、シンは首を振る。反逆者たちの嗚咽が響いた。
ジャンヌはダヴィに駆け寄る。彼の様子がおかしい。いつまで経っても立ち上がらない。
「どうしたのさ?」
「少ししびれる。毒かもしれない……」
「見せて!」
矢を引き抜き、その矢じりを見る。緑色の液体が付着していた。ジャンヌは顔を青くして、ダヴィを寝かせた。そして彼の身体にのしかかり、血が流れる傷に口を付けた。血を含んでいく。
「ジャンヌ、君まで危険だ……」
「黙って!」
しびれる肩に、彼女の荒い吐息がかかる。毒が混じる血を吸いだしては吐き捨てる。先ほどの戦い以上に彼女は真剣だ。ダヴィは抵抗することを止めて、地面に背中を付けた。ブーケが心配して、彼の顔を舐めてくる。それをいなしながら、彼女の手当てを黙って受けていた。
それを横目に見て、シンはため息をついた。この雨である程度毒は流され、あの治療では身体に毒は回らないだろう。これで暗殺は完全に失敗だ。
「貴様が来たのは偶然なのか?」
縄を後ろ手にうたれながら、目の前のアキレスに尋ねる。彼は首を振った。
「密告者がいたのさ」
「密告、だと……」
その時、一台の馬車が到着した。車輪が完全に止まらないうちに、扉が勢いよく開いた。
「兄様!!」
普段からは想像が出来ない大きな声を出し、オリアナがスカートの端を上げて走り出る。ドレスに泥が付くのも気にしない。彼女はダヴィの元に駆け寄り、ジャンヌの顔を見る。
「大丈夫だから、あたいに任せて」
「うん……兄様、申し訳ありません……私が油断したから…………」
「オリアナ、俺は大丈夫だよ」
ダヴィが差し出した左腕をオリアナが両手で握る。ダヴィの傷が癒されるようにと、彼女はその腕をキスをして祈り続けた。
シンは彼女が出ていった馬車の中に、見覚えのある人影を見た。心臓が止まりかけるほど驚く。
「そんな……」
「そうだ。密告者とは、お前たちが擁立した王子たちだよ」
馬車の窓から幼い顔が二つ覗いている。申し訳なさそうだが、その顔は安堵しているようにも見えた。アキレスが説明する。
「この前の捕縛計画も、彼らがアジトを教えてくれたからだ。ウッド国の滅亡を間近で見て、王になることが怖いそうだ。修道院で平和に暮らしたいと言っていた」
「なぜだ……ああ、どうして……」
「みじめなもんだな。操ろうとした人形に裏切られるとは」
その情報をつかんだのはオリアナだ。彼女は兄の傍からゆっくりと立ち上がり、シンの近くへと来る。先の捕縛計画も彼女が主導した。その捕り逃した反逆者が兄を襲った。彼女の視線には憎悪と怒りが込められる。
しびれが取れてきたダヴィは、オリアナに命令する。
「オリアナ、殺さないようにしてくれ」
「…………」
「特に、アンジュ将軍は惜しい人材だ。出来れば味方にしたい」
兄の頼みだ。聞かないわけにはいかない。オリアナは振り返って微笑む。ダヴィには優しい表情に見えたが、同時に見たジャンヌたちの背筋が凍りつく。
オリアナはゆっくりと頷いた。
「分かりました……兄様……」
――*――
その日の夕方、ダヴィの自室にルツが血相を欠いて飛び込んできた。
「お兄様!」
「しー。今寝ているよ。大丈夫。毒は抜けたから」
とダヴィのベッドの隣に座るジャンヌにたしなめられる。彼女はホッと息をついてジャンヌから事情を聞いて、そして抱きついた。
「ジャンヌ、ありがとう! あなたのおかげよ!」
「よせやい。あたいは任務を全うしただけだよ」
「他の人ならなかなか出来ないわ。あなたがお兄様の傍にいてくれて本当に良かった」
「そうかなあ、えへへ」
愛想笑いをするジャンヌ。ルツは抱きついてから彼女の身体が濡れていることに気が付く。包帯も適当に巻いただけだ。きっと、自分のことを
「ジャンヌは皆の恩人よ。看病役、代わるわ。さあ、着替えてきて」
「うん」
「ところで、オリアナは?」
こんな時、ダヴィの傍にべったりとくっついているのは彼女だと思っていた。この部屋にいないことに違和感すら覚える。ジャンヌがその疑問に答えた。
「ダヴィの指示で、あの暗殺者のシンとかいう奴の説得に行ったよ」
「説得?」
「殺さずに、仲間にしろってさ。ダヴィも甘いんだから」
とジャンヌは苦笑いして、寝ているダヴィの頬をつつく。距離が昔に戻ったみたいだ。最近ではあまり見ない光景である。
一方でルツの顔が青白くなる。
「どうしたんだよ?」
「そう……『説得』にね……」
彼女は頭を振った。ウェーブした髪を揺れる。今頃どうなっているか、想像もしたくない。兄を殺そうとした悪党を思いやる。
「彼女、死んだ方がマシだったわね……」
――*――
「うう……ああ……」
ミラノス城内の地下。空気が重い。石の壁の隙間から伝う地下水が、ぽたりと地面に落ちる。牢屋よりもその下。旧クロス国の人間でもごく一部しか知らない場所だ。
太陽の光が全くない場所で、ロウソクの灯りが女の裸体を映し出す。椅子の上で縛られ、目隠しをされている。体は汗と糞尿と鼻水、そして涙がべったりとくっつく。むせかえるような臭気がこみ上げる。
ここに入れられて数日。いや、それ以上なのか。時間の感覚は無くなり、干からびた喉はうめき声しか上げられない。次に来る“拷問”に怯えるしか出来ない。
シン=アンジュのぼやけた頭に時々思考が戻る。その度に自分の意思を示す。
「こ、ころして……」
「だめ」
彼女がいる部屋の石床に足音が響いた。次が来る。シンは体が震えて、僅かに溜まっていた尿を輩出する。新鮮なアンモニア臭が立ち込める。
「悪い子……またオシッコした……」
「ひっ……ごめんなさい! ごめんなさい!」
ウッド国の元将軍。その面影はどこにもない。幼い子供よりも惨めに、許しを乞う。潜伏中も凛々しさを保っていた黒髪はだらりと垂れ、威厳があった顔は蒼白になって震える。部下が見たら、彼女だと分からないかもしれない。
オリアナはゆっくりと近づいた。そして彼女の後ろに回ると、涙と汗がついた頬をゆっくりと撫でる。シンは奥歯をガチガチと鳴らす。
「な、なかまになる! 降伏するから!」
「だめ」
シンの身体はキレイまま、傷をつけていない。すでに服従した他の反逆者たちも同様に。そうしないと“兄にバレてしまう”から。
オリアナの細い指がシンの顔の表面を動き、耳たぶをつまんだ。そこに口を寄せる。
「道具になるの……兄様に服従しなさい……」
「それは……」
「私と一緒に……兄様の影になるの」
オリアナは生涯ダヴィに付き従う。そしてダヴィが死んだ一年後、後を追うようにして亡くなる。兄が死んでから急激に弱って寝たきりになった彼女は、自分の死期を悟り、重要機密が隠された自分の屋敷に火を点けて焼死するのである。それが死の淵にいた彼女の、兄への最後の忠義だった。
そして、その生き方こそ、彼女の幸せなのだ。
「兄様の喜びこそが、私の喜び……兄様の
「……………………」
「あなたもその一つにしてあげる…………返事なさい……」
「……………………はい」
このオリアナに忠誠を尽くすシン=アンジュの苦難はここから始まった。全てを投げ出して弛緩する彼女の頬に、オリアナはキスをした。
オリアナは終始微笑んでいたという。
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