第17話『霧中の父子』

 心地よい。肌寒いが、これから新たな一日を始める高揚を少し感じる。ゴールド国の霧だ。マセノは懐かしさを感じる。


 雨に近い濃い霧が、朝日が昇りかけた頃に立ち上る。特に今のような河川の上では、目の前が見えないほど視界がクリーム色に染まる。


 彼はゆっくりとオールを動かす。ここには誰もいない。『一人だけで来い』。それが相手の条件だった。


(本当に来るのか)


 約束を守る人だ。だが、それでも不安が残る。敵味方に分かれた今、親子の約束など泡のようにもろい。船のへりに付いた飛沫が消えるのを見て、マセノはむなしさを覚えた。


 もうすぐ太陽が顔を出す。そうなれば風が吹き、この霧も晴れるだろう。彼は慎重な男。来るとすれば、霧で視界が覆われている今だ。


 その時、ゆっくりと近づいてくる音が聞こえた。小舟だ。自分と同じようにオールを動かす音が霧の中から聞こえる。そして相手の影形が分かるほど近づき声が聞こえた。


「マセノか」


 懐かしさと、少しばかりの憎らしさを感じる。マセノはオールを手から離して、声を発した灰色の影に頭を下げる。


「お久しぶりです。慎重なあなたが良くいらっしゃいましたね」


「お前があのような手紙をよこしたのだ。会わないわけにはいかないだろう」


 ゴールド王・ウィレム1世。自分と似た父の声をマセノは間違えない。目の前の影は本物だ。相手の小舟には王を含めて三人しか乗っていない。ふと浮かんだ疑問を口にする前に、答えが来た。


「お前は嘘がつけない愚か者だった。一人で来いという約束を守るだろう」


(さすがは我が父)


 ――人を見る目がある。ただし新しい世界には興味を持たない。自分の父親のことながら惜しいと思う。ダヴィとは違う。


「お前が急に出奔して何年経ったか」


 その声の裏では、恨んでいるのか、懐かしんでいるのか。マセノは表情一つ変えずに答える。


「間違った判断だったとは思いません」


「私の右腕となることを捨てて、何をやっているかと思えば……よもや成り上がりの王に仕えているとは。お前の心が読めぬ」


 ちゃぷん。水が跳ねた音が聞こえる。魚が泳いでいるのか。ゴールド王にマセノは忠告する。


「成り上がりと見ていては、破滅します」


「破滅」


「僕は冗談は言いますが、嘘は言いません。あなたが言う愚か者ですから」


 王の影は身じろぎ一つしない。マセノの口も止まる。静かな父子の対談が川の流れの中で続く。


「ダヴィ=イスルはいかなる男か」


 霧を口ではみ、マセノが父に答える。


「混沌なり」


 意外な言葉に、ゴールド王の口が一瞬止まる。


「どういう意味だ?」


「あなたが知る旧来の善悪では測れぬ人物です。彼の中には黒も白も飲み込む嵐がある。その渦中にゴールド国も飲み込まれるでしょう」


「ふん」


 鼻で笑う声がした。しかし強がりにしか、マセノには聞こえない。


「それで、降伏した方が良いと言うのか」


「おっしゃる通り」


 マセノは身を乗り出す。彼の乗っている舟が揺れた。


「ダヴィ王は本気で世界を変えようとしておられる。伝統や歴史を顧みず、国を統合する利益を見据えている。その前途を妨げようとした前教皇もヨハン=セルクス公は倒された。この国の王侯貴族が束になっても勝てる相手ではありません。それこそ聖女様の思し召しでもなければ……」


「一対一では勝ち目がないことは分かる。しかし他国に援助を求めれば」


「他国は所詮他国。本気で援助はしないでしょう。それでも援軍を受ける場合、戦場はゴールド国内となります。王よ、自国を戦地と化して荒らすおつもりか」


「…………」


 王は嘆息を吐いた。肩を落としているのが霧の中でも分かる。


「マセノ、それがお前の答えか。父を捨て、地位を捨て、国を捨てたお前が出した結論が、それか」


 マセノが「そうです」と答えると、王は口を開く。白霧に静かな怒りが響く。


「聞いておるぞ。お前は異教徒の集団を指揮しているそうではないか。“自らの母を苦しめた”と考えていた彼らを許すのか」


「それは……」


「しかも打ち解けていないと聞くぞ。我が密偵が調べると、お前の部下はお前を認めていない。ダヴィ王にすり寄った結果、哀れな男よ」


 マセノは反論しようとした。顔が赤くなる。だが、言葉が出ない。彼の言葉には真実が含まれている。その様子を見て、王は息子であった男に人差し指を向ける。


「変わろうとして変わり切れない、半端な者よ。お前の言葉が真実とは思えん」


「それは違います! 僕はただ……!」


「ダヴィ王の人物像も、お前の淡い理想を表したに過ぎない。聖女様にすがり寄る亡者に似ている」


 人が語る言葉は、語る人を見ながら聞く。王は息子ですらなくなったマセノを信用できない。王の従者がオールを持つ。


「王よ!」


 去り際に、元息子に言葉を吐き捨てる。


「マセノ、お前の使命は祖国を貶めることか。母譲りの外見の奥底からは腐臭がする」


 マセノは奥歯を噛んだ。そして立ち上がり、遠ざかる舟に向かって叫ぶ。


「腐っているのはゴールド国の方だ! 船底の空いた船に、民を巻き込むつもりか!」


 霧の中に消えていく舟の影から答える声が聞こえる。


「その船にすがるものも多い。新しい船に乗るために、古い船と乗員を燃やすつもりなら、私はその船と運命を共にする――」


 川の中に取り残された。不安定な舟に足を取られ、マセノは尻もちをつく。揺れる舟を抑えながら、彼は大きなため息をついた。


「頭の固い人め……いや」


 変わっていない自分こそ頭が固すぎる。自分を脱ぎ捨てたいと思い、旅に出たのに、ゴールド国に執着している。そして異教徒への蔑視と母親への哀しい愛情は拭い去れない。水面に浮かぶ自分の顔は、物を言わなくなった母親に縋りつくひ弱な少年の頃と同じだ。


 強くもなれず、優しくもなれない。半端な自分がいる。マセノは自分の胸を何度もたたく。


「苦しい……僕は、僕が憎い……」


 自分を傷つける度に、小舟が揺れる。今日の霧はなかなか晴れない。いつまでもマセノの悲しい姿を隠していた。

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