第16話『異教徒の元奴隷少年』
鳥の声が聞こえ始めた。気の早い蛙は地面から顔を出し、雪解け水の中で久しぶりに泳ぐ。春が近いことを人々は知る。
彼は思い出していた。リバールの戦場で死にかけていたことを。そして巨大な男に拾われたことを。彼は今までの少ない生涯を思い、また動かない自分の足を見つめて、ため息交じりに呟いた。
「なんで生きちゃったんだろう、オレ……」
――*――
ミラノス城の窓から見える木々にも新芽が生えた。ノイはそれを眺めながら廊下をゆっくりと歩く。その巨大な背中に、ジャンヌが声をかける。
「ねえ、ノイ。あの子はどう?」
「起きた」
「それで?」
「傷は治っていない」
つっけんどんな物言いに、ジャンヌは手を腰に当ててため息をつく。
「なにさ、人が心配しているのに。そんなことだとあの子にも嫌われるよ」
「…………」
ノイは一つ
「待って待って! 結局どうするのさ。ゴールド国の戦場で拾ってきたようだけど、あの子を育てるつもり?」
「む……」
彼は大きな黒い頭を傾げて腕を組む。何も決めていないのだろう。ジャンヌは深くため息をつくと、近づいてくる影に気が付いた。
「ちょっと、マセノ! あんたからも何か言ってやってよ!」
長い黒髪が差し込む日光に輝く。今日も女性よりも美しく着飾った衣装に身を包み、コツリコツリと石の廊下を進む。糸のほつれた衣服を身に包むノイとは大違いだ。彼は物憂げな表情を見せる。
「どうしたんだい?」
「……って、あんたこそどうしたのさ。つまんない芸術のこと?」
「つまんないは余計だよ」
ジャンヌは「え?」と心配そうな顔をした。いつもの
「それで、用件は?」
「え、ああ……ノイが拾ってきた子供のことだよ。助けるだけ助けて、どうするか決めてないんだって」
マセノは肩をすくめる。その姿もいつものオーバーリアクションとはほど遠い。
「僕は用事があるんだ。そんな暇は無いよ」
「そんな暇って……あの子が可哀そうだと思わないのかい!」
「思わないよ。だって」
――異教徒だろう、という言葉は飲み込んだ。自分の黒い闇を打ち消し、マセノは長い髪をかき上げる。目の前の仲間たちも異教徒だ。マセノは言葉を巧みに選ぶ。
「……随分と生意気だって聞いたよ。『なんで生かしたんだ』って騒いだらしいじゃないか」
「ムハンマドはツラいのさ。仲間が自分の近くで皆死んじゃったんだもの」
マセノは口を曲げて息を鼻から吐いた。そして首を大きく振る。
「とにかく、僕の仕事じゃないよ。そっちで良いようにしたらいいさ」
「ちょっと! そんな言い方ないじゃない」
「急ぐんだ。お好きなように罵ってくれ」
とだけ言って、彼はさっさとその場を離れた。彼の背中に向かって、ジャンヌは悪態をつく。
「なんなのさ、まったく」
「…………」
不仲のノイも、彼の姿に違和感を覚える。いつもの余裕がないと感じた。ジャンヌは「やれやれ」と言ってノイの背中を押す。
「行こうよ、ムハンマドのところへ。マセノは自分でどうにかするさ。あんたはこっちのことを気にしないと」
――*――
ムハンマドは起きていた。彼は窓の外をジッと見つめ、部屋に入ってきた二人に振り向くこともしない。ジャンヌはベッドの端に座る。
「おはよう、ムハンマド。起きてたんだね」
「…………」
「今日はおとなしいじゃない。この前みたいに暴れたりしないの?」
「そんなことをしてもムダだって気づいた」
彼はシーツの上から自分の右足をパンパンと叩く。包帯に巻かれて、指先の感覚が無くなった自分の足を冷たく見る。
「オレの足はもう元に戻らないんだし、自分では死ぬことすら出来なさそうだから」
「…………」
ノイも彼の足を見る。彼を助けたのはノイだ。リバールの戦場に残されたゴールド軍の船の残骸の中で、折り重なる死体の中から発見した。虫の息だったムハンマドを担いで、ミラノスまで戻ってきた。意外な戦利品に、ダヴィたちは驚いたものだった。
船底にいたということは、彼は漕ぎ手に使われていたのだろう。過酷な労働だ。ゴールド国では奴隷が主に担う。直接聞いたわけではないが、そういう境遇だったのだろう。
そして服の中に隠し持っていた貝殻のペンダント。これは海を信仰する異教徒の象徴だとノイは知っていた。異教徒の元奴隷少年。それが彼の正体だ。
「なあ、あんたら」
ムハンマドは窓の外を見たまま尋ねる。ジャンヌは優しい声で答える。
「なに?」
「オレに何をさせたいんだよ」
ジャンヌはチラリとノイを振り向く。しかしムハンマドを見つめるだけで、いつも通り何も言わない。ジャンヌは軽い失望の息をもらしてムハンマドに向き直る。
「別に何もさせない。元気になってほしいだけだよ」
穏やかに言った彼女の言葉に、少年の目じりが吊り上がる。褐色の顔がさらに赤くなる。
「ふざけるな! こんな足で元気になって、どうしろっていうんだ! どうやって生きればいいんだ!」
「それは……」
「勝手に助けておいて、自己満足したらポイ捨てかよ。オレをおもちゃかなんかだと思っているんだろ!」
彼の怒りの目は、今度はノイを
「あんたが助けたんだろ! 何でもしてやるよ。俺に生きる目的を与えてくれ」
「…………」
「何か言えよ!」
ノイは何も言わない。彼は椅子に腰かけ、少年の目の前に座った。普通の椅子だが、彼が座ると幼児用に見える。ムハンマドはノイの分厚い上半身に目を丸くする。彼が夢に抱いていた大人の理想形だった。誰にも喧嘩が負けない、強い力を持つ大人。
「やっぱり、でけえ」
彼の無言の威圧感に、ムハンマドの口が止まる。怒りの言葉を飲み込み、褐色の頬に涙が伝う。自分の足が視界に映る。
「あんたも異教徒なんだろ」
しゃくり上げるほどの涙がこみ上げつつ、ムハンマドは尋ねる。自分と同じ
「強そうだよな。どうしたらあんたみたいになれるんだよ。もう足の動かない俺には無理なのかな」
「強くない」
ハッキリとした口調だった。ムハンマドもジャンヌも驚いて彼の顔を見る。ノイはまた言った。
「俺は、強くない」
そう、彼は強くない。いくら叫んでも変わらない周囲に絶望して、彼は口を閉ざすようになった。そして外部と遮断する殻として強い体を手に入れた。彼の心は弱いままだ。
音楽でしか心が動かなくなった自分を自嘲する。ノイはゆっくりと首を振る。
「俺のようになるな」
ムハンマドは涙を拭いた。ジャンヌに聞く。
「姉ちゃんも弱いのか?」
ジャンヌは口の中で唸る。多くの人と関わるようになった今、彼女の心の内も複雑に変わった。
「…………そうかもね。昔は自信満々だったけど、今はそうでもない」
「そういうもんか」
少年は悩む。いつか強くなったら、大人になって弱くなくなったら、奴隷を止めることが出来る。そう信じていた彼の前で、二人の大人が弱さを告白する。
「大人になったら迷わなくなると思っていたよ」
窓の外に太陽が輝く。その向こうに海があるだろう。彼は信仰する海を心の中で見て、問いかけるように呟いた。
「じゃあ、人はいつ強くなれるのかな」
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