第17話『簡単なこと』

「パパ、まだあ?」


「もうちょっとだよ」


 ダヴィは椅子に座るエラの前で膝をつき、もそもそと手を動かす。ぶらぶらとエラが足を動かそうとする度に、その足をつかんで止める。ダヴィの視線はエラの足先に集中していた。


 エラは小さな口であくびをする。そして次の瞬間には、その口から不満が零れる。


「お外に出る度に、なんでお靴を磨かないといけないの?」


 ダヴィはエラの外行き用の靴を磨いていた。使い古した布を巧みに使って、彼の趣味の一つである靴磨きを楽しんでいた。戦場では当然、そのような暇はない。これが帰ってきてからの彼の楽しみとなっていた。


 しかし、靴を磨かれる身としては退屈なものだ。口をとがらせるエラに、ダヴィはこう言って説明した。


「外に行くっていうのは、お靴にとってパーティーに行くようなものさ」


「パーティー?」


「そうだよ。エラはパーティーに行く時はおめかしするよね。それと同じで、お靴もキレイにしてあげないと可哀そうだろう?」


 エラは分かったような分からないような「ふーん」と返事をする。そして、キラキラと光るダヴィの耳飾りを見つめながら、じっと我慢して待った。


 それからしばらくして、ダヴィの手がやっと止まる。


「さあ、これでお終いだよ」


「やったー!」


 エラは椅子から立ち上がり、ピカピカになった靴を部屋の外で待つノイに見せに行った。ダヴィは靴磨きの道具を片付けながら、エラに大きな声で言った。


「一緒に行くから、ちょっと待ってね」


「はーい」


 ――*――


 ダヴィはエラと一緒にブーケに乗り、ミラノスの街の中を進む。彼の後ろには近衛騎兵が三騎続き、ブーケの隣にはノイが揃って歩く。


 エラはダヴィの前に座り、金色の髪に新しい髪飾りを付けていた。


「ノイー、見て見て!」


 エラはふわふわとした髪を撫でて、隣で歩くノイに髪飾りを見せつけた。ノイは褐色の顔をちらりと向けて、軽くお辞儀をして前に視線を戻した。その様子の何が面白いのか、エラはクスクスと笑った。


 ブーケはその様子を感じて、フンッと鼻を鳴らす。重い鎧を着させられずに歩く彼は、機嫌が良さそうだとダヴィは感じた。


 空は秋晴れ。ダヴィたちに会釈する行商人や街人たちの衣服には綿が詰められ、露店には厚手の布団や雪かきが売り始めた。太陽の力は徐々に弱まり、長く寒い季節の匂いを感じる。


 冷たい北風が吹いた。エラは背中をダヴィにこすりつけて温まりながら、上を向いて尋ねる。彼女の髪から太陽の匂いがした。


「ねえ、お散歩楽しいね」


「そうだね」


 ダヴィは彼女へのサービスのためだけに散歩しているわけではない。彼自身の気分転換のためでもある。


(ウッド国に攻め込む方法か……)


 先ほど開かれた会議では結局結論が出なかった。ミュールやジャンヌは森の強行突破を主張したが、ジョムニとアキレスは海からの侵攻を主張した。その一方でルツとルフェーブはファルム国や教会から圧力をかけて、アレクサンダー6世を引き渡してもらう外交解決を主張した。それらの議論を続け、皆が疲れた頃に、ダヴィは一度散会を決した。


 どれも決め手に欠ける、とダヴィは考えていた。強行突破は敵の術中にはまってしまい危険だ。ウッド国は港が多いので、海からの侵攻は有効だが、ダヴィ軍には軍艦が少ない。今から揃えたとしても、海戦経験が少ないダヴィ軍がどこまで戦えるか不明だ。


 それを考えると、外交決着が現実的だった。しかしオリアナがぼそりと呟く。


『あの女を……生かしておくわけにはいかない……』


 その意見で、外交解決は立ち消えになった。確かに、交渉が成功する確率は少なそうなので、却下は妥当と感じた。


(しかし、どうするか……)


 元教皇・アレクサンダー6世は倒さねばならない。しかし太古からあの地域を支配する巨大な森が立ちはだかる。ダヴィはエラの話を頭半分で聴きながら、もう半分の頭ではその森を考え続けていた。


 ふと、前を歩いていた通行人が左右に避けるのを感じた。ダヴィは顔を上げる。


「ここまで来ていたか」


 ミラノスの街の東端にダヴィたちは到着していた。そこには道の真ん中に大きな岩が生えていた。ミラノスでも「道塞ぎの岩」として有名な場所だ。


「おっきいね」


 とエラが見上げる。人の背丈の三倍以上はある岩が、ダヴィたちを影で包む。


 この岩を眺めていると、教皇軍と戦った赤龍の戦いを思い出した。


(ジョルジュと戦ったのは、こういう岩だったな……)


 夜の闇を焦がす炎の中で、ジョルジュの胸を射抜き、血を流す彼の身体を抱いたことを昨日のことのように感じる。冷たくなっていく幼馴染みに、殺した身でありながら慰めの言葉をかけた。ジョルジュはどう思いながら死んでいったのだろう。妹・クロエのことが気がかりだったのではないだろうか。そんな思いがダヴィの心の中に去来する。


「この岩、ジャマね」


 エラが上げた声に、ダヴィは我に返った。彼の腕の間で、エラは岩を指さしながらノイに声をかける。


「ノイ。あの岩どかせられないの?」


 ノイはジッとエラを見つめると、ゆっくり首を振った。「むう」とエラは頬を膨らませる。


「この岩が無ければ、皆よけなくてもいいのになあ」


 素直な意見だ。ダヴィは大人として、微笑みながら彼女を諭す。


「エラ。この岩はどかせられないんだよ」


「なんで?」


「なんでって、大きすぎるからさ」


 この岩をどかすぐらいなら、避けて通った方が簡単だ。街の人々は疑問にも思わず、岩を左右に避けて進む。


 しかしエラは納得しない。


「でも、無い方がいいんでしょ? 本当にどかせられないの?」


「まあ、人数をかければ無理やり……あっ!」


 その時、ダヴィはひらめいた。頭の中で絡まっていた糸がキレイに解けるのを感じた。


「ノイ、今すぐ戻ろう」


「えー」


 駄々をこねるエラを言い聞かせながら、ダヴィは急いで帰城する。機嫌がいいな、とブーケは主人の気持ちを察して、早足で進んでいく。


 ――*――


 政治権力の移り変わりより激しいのが、商業の流行である。以前までは世界の政治の中心だったファルム国が物流・交易の中心であり、多くの商人がファルム国の首都ウィンに拠点を構えていた。


 ところが先の戦いでファルム国の権威は凋落した。その先行きの暗さを感じ取った商人たちは、新興のダヴィに活路を求め、ダヴィの勢力圏へと拠点を移してきた。この節操なく機敏に動きまわることこそ、商売繁盛の条件であろう。


 ダヴィの勢力圏でも一、二位を争う貿易港のフィレスでも、そうした移住商人が増えてきた。この街の顔役であるダヴィの父・イサイは、益々繁盛する自らの商売の運営と同時に、移住商人たちの統率に苦心する忙しい日々を過ごしていた。


「やれやれ、仕事が全く終わらん」


 書類を読み過ぎて疲れた目に手を当てて、何度も眼鏡を拭く。彼だけではなく、同じように机を並べる部下たちも、似たような行動をしている。


 それでも、彼はこの状況に満足していた。


「ま、仕事があるだけマシと考えるか……」


 昔、破産しかけて息子・ダヴィを売った。そして少し前までは教皇軍やファルム国と戦うダヴィたちの戦局を、商売そっちのけで固唾かたずを飲んで見守っていた。それを思えば、この商売の忙しさだけに苦心する現状は幸せなものと言えよう。


 ダヴィたちも忙しいだろう、とイサイが思ったその時、ドアをノックする音が聞こえた。


「イサイ様、オリアナ様がお見えです」


「おお!」


 噂をすれば何とやら。応接間に向かうと、椅子に座るオリアナが見えた。黒いフリルが付いたドレスを着ていて、唇にはうっすらと紅をさしている。そして傍らには、先ほどまで茶色いショートカットの髪に乗っていたであろう小さな帽子が置かれていた。


 イサイは久しぶりに会う娘の姿に目を細める。


「随分とおしゃれになったものだ」


「スールが……勧めるから……」


「なるほど」


 イサイもスールのことは知っている。恋愛に忙しい彼女のことだ。衣服の流行にも敏感なことだろう。


「もうすぐミーシャも帰ってくる。それまでゆっくりしていなさい」


「……その前に、仕事の話……」


 オリアナは淡々と造船業者と木材問屋の紹介と労働者募集の協力依頼をした。その内容をまとめた紙を父親に渡す。


「目的は?」


「それは言えない……機密事項……」


「ふむ……」


 イサイはあごひげを撫でながら紙を読み進める。記載されている依頼料は妥当な線だ。そこには親子間の甘えは感じられない。その点に娘の成長を嬉しく思う反面、もっと頼ってほしいと思う親の寂しさを感じる。


 イサイは一つ頷き、部下を読んで指示を出した。依頼の通りに進めるように命じた。


「ありがとうございます……」


「いや、公平な取引だよ。問題はない」


 それから二人の間から話題が消え、しばらく沈黙が続いた。さて、どうしようか。イサイは二杯目の紅茶をすすりながら考える。


(ルツがいれば、話題を作ってくれるのだが。父と娘というのは難しいものだ)


 思わずため息をつきそうになったその時、オリアナが重い口を開く。


「ねえ、お父様……」


「なんだい?」


 急に沸いた話題に、イサイは驚きながら飛び付く。少し前のめりに話を聞く父に、オリアナはぼそぼそと質問する。


「愛は……夫婦にならないと……育めないのかしら……?」


(なんと、恋愛の相談か!)


 これは困った。世の中の父親にとって、これ以上答えに困る質問があろうか。しかもこの質問内容から察するに、娘は道ならぬ恋をしている。妻がいる男性に恋をしているのだろうか。


(うーむ……)


 ミーシャであれば、と考えたが、厳格な母親である彼女は即座に非難して、高圧的にその恋を諦めさせようとするだろう。イサイも父親として幸せな結婚をしてくれることを望むが、そうかと言って無下に娘の感情を潰してしまうのは本意ではない。彼は普段の仕事に用いる何倍ものエネルギーで頭をフル回転させて、父親として正しい答えを考える。


 この間、オリアナはイサイを見つめるだけだ。何の言葉も発しない。それも彼には圧力を感じさせた。

やがてイサイは言葉をひねり出す。


「……商売には自分と商売相手だけではなく、周囲の人々という第三者を考えなければならない」


「第三者……」


「そうだ。結婚すれば、周りも祝福しやすく、周囲に愛を振りまくことが出来る。人の愛の形として整っている」


 しかし、とイサイは続ける。


「愛の形は一つではない。結婚せずに幸せになる人たちも大勢いる。だが、ここで重要なのが、周りも幸せになるような恋をすることだ。周りを不幸にするような恋は、結局自分たちも不幸にしてしまうよ」


 と優しく諭した。ここで彼は結論として、結婚が最上の愛の形であると、暗に言いたかったのだ。道ならぬ恋は良くないと説得したかったのだ。


 それを聞いて、オリアナは頷く。そして軽く微笑んだ。


「分かった……お父様、ありがとう……」


 イサイはホッと息をつく。聡明な娘だ。父親の気持ちを分かってくれたに違いない。


 ところがどっこい、オリアナは自分の恋への後押しとしか感じていなかった。この恋愛に関しては、彼女の理性は牢獄に入れられ、本能が彼女を支配する。父親の言葉は巧みに変換されてしまっていた。


 オリアナは微笑み続ける。きっと兄と自分の行く末は明るいものに違いない。そして周りも祝福するに違いない。


(私は兄様の影……決して離れることのできない存在……)


 『陰姫』と呼ばれた彼女は、自らもそうありたいと願い、今日も兄を想う。目の前で安心している父の考えは無視して。

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