第18話『大将軍という名の枷』

 今日は風が強い。北から吹く冬の乾いた風を真正面に受け、シンは目を細めた。彼女の黒いポニーテールがバタバタとなびく。それでも彼女はここから離れようとしない。


 自分の屋敷の二階のバルコニーから見えるこの景色が、シンは好きだった。ヴィレン大森林は今日も偉大だ。これから真冬になるのに、冬眠しない生き物を養い続ける。この国の住人は、冬の薪木に困ることは決してない。この森のおかげだ。


 眺めているだけで気持ちを穏やかにさせてくれる。どんなことがあっても。


『シン=アンジュ。この度の敗戦の責を取り、しばらく謹慎するように』


 これがウッド王から受けた言葉だった。森の中でダヴィ軍に勝利し、国に帰った彼女を褒める者は一人もいなかった。目じりをつり上げるウッド王と、視線をそらすサンデル=ヴァースら重臣たち。シンは感情を胸の中に押し込め「分かりました」と言うしかなかった。


 そんな彼女を、サロメが慰める。


『今は我慢しなさい。陛下は不満のはけ口を求めているのよ。教皇猊下げいかも大層怒っているからね。大丈夫。わらわが取り繕って、復帰させてあげるから』


(私はいつまで我慢しなければならないのだろう)


 サロメの言葉がむなしく聞こえる。必死に戦った彼女の闘志は、彼女に従って死んでいった者たちの無念さは、どこへ消えて行くのか。目の前に広がるヴィレンの森は、何も答えてくれない。


(父は、どうされただろうか)


 シンの父親は偉大だった。ウッド軍の全ての兵士に信頼され、ウッド国の顔として外交も取り仕切っていた。ファルム国の宰相だったヨハン=セルクスとも良い関係を築いていた。彼が生きていた頃はサンデルたち文官は権力を振るうことなく、サロメに政治を牛耳切られることは決して起こりえなかった。そもそもウッド王がサロメを正妻にしようとした時、強硬に反対したのが彼だった。その結果、現在もサロメは正妻どころか、側室にもなれずにいる。


 そんな父親も急死した。その結果、軍事費は削減の一途をたどり、木材を輸出する港がどんどん整備された。そして木材問屋と結託するサンデルらが権力と財力を持ち、森林の一部を切り開いて田畑を作って生活する昔ながら貴族たちは追いやられた。


 偉大なる森は切り崩されていく。木材、そして金へと変えられ、消えていく。すでにこの数年の伐採量の増加で、洪水などの被害は増えてきている。農民たちの不満は募るばかりだ。


(あの頃が懐かしい)


 父に馬に乗せてもらい、幼いシンは森を散歩した。すれ違う者は皆笑顔だった。貧しいながらも、その困難を分かち合っていた。豊かな時間が国中に流れていた。


 しかし今は違う。空気はすさみ、広がる格差に嘆く声が日に日に大きくなる。シンは博愛主義者ではない。国が発展する上で必要な過程と頭では考えるが、心では寂しさを感じる。


(だが、私に何が出来ようか……)


 拳を強く握っても、悔し涙を流しても、彼女の声に誰も耳を貸してくれない。いくら剣を鍛えて、国一番の戦士と称賛されても、所詮しょせん若い女だと言われてしまう。代々男が受け継いできたアンジュ家と大将軍の地位を、女性のシンが継いだことに、今でも批判が絶えない。親族たちは虎視眈々とアンジュ家の惣領の座を狙っている。


「むなしい」


 思わず声に出してしまう。もっと国を、そして世界のことを考えるべきなのに、シンの周りの連中は自分の権力や財産のことばかりを考える。ウッド王はサロメのことばかり。サロメは自分の権力向上のことばかりだ。


 先ほど、あのように慰められた時、シンはサロメに問うた。なぜ勝ち過ぎない方が良かったのかと。サロメはまた黒い唇で答える。


『わらわがコントロール出来なくなるでしょう』


『コントロール……?』


『もしウッド軍が勝ってしまえば、陛下の権威は上がり、教皇猊下はクロス国に戻ってしまう。もしかしたら、わらわと交わした約束を破棄してしまうかもしれない。だから陛下と猊下が調子に乗らないぐらいが良かったのよ』


『サロメ様がお二方を操る状況を続かせたかったと……』


『その通りよ。理解が早くて助かるわ。このまま現状維持が続けば、いずれはダヴィもわらわの提案に乗らざるを得なくなる。そうなれば、わらわは旧クロス国とウッド国を支配する女王となれる』


 シンは愕然がくぜんとした。結局、彼女はサロメの野望の片棒を担ぎ、ウッド国滅亡を助けたに過ぎない。「その時はあなたにもご褒美をあげるわ」と付け加えたサロメの言葉は、シンの意識から零れた。


(誰も、国の未来を、民のことを、考えようとしないのか!)


 シンは悩むままフラフラと歩き、無意識に中庭に来た。ここは父親と遊んだ思い出の場所だ。中央に大樹がそびえ立つ。


『これは我らの先祖が二百年前、この国の東端から運んできた木だ』


 と父親がこの木の前で言っていたことを思い出す。その時、父親と手をつないでいた幼ないシンが、父親の顔を見上げながら尋ねた。


『なんで運んできたの?』


『この木は、我が王国に従うことになった民衆が、友好の印として送ってきたのだ。この木の兄弟分はまだ現地に生えているはずだ』


 そして父親は真っすぐした目で、シンに語りかけた。


『国家とは多くの民に頼られる、この木のような存在だ。雨が降れば雨から守り、風が吹けば風を防ぐ。我らはこの根っことなり、見えないところで支えないといけないのだ』


(きっと、父上は怒るだろう、今のこの国の姿を)


 父親の言葉を思い出して確信する。しかしもう、父はいない。自分がこの国を支えるしかない。でも、どうやって?


(父上、私はどうしたら宜しいでしょうか?)


 何も話さない大木に語りかける。そして木は無口なままだ。そこには優しさも厳しさもなく、シンの前でそびえる。


 シンは肩を落とし、その場を後にした。そして中庭から屋敷の中へと入ると、一人の若い貴族が玄関で待っていた。シンを慕う勇猛な貴族で、先日の戦いでは従軍していた。シンは優しい目をしたが、立場上、素っ気ない言葉を投げる。


「私は謹慎中だ。来てくれて嬉しいが、話すことは出来ない」


「分かっておりますが、そこを曲げてお伝えしたいことがございます」


「む?」


 シンは彼を応接間へと通した。そして人払いをすると、彼を促す。


「何事だ?」


「ダヴィ軍が国境沿いで動いています。それに対して、陛下も重臣たちは誰も何もしようとしないのです」


「敵は何をしているのだ?」


「木を伐り、道を作っています」


「ああ……」


 シンは前のめりになっていた姿勢を戻す。そして一笑に付した。目の前の焦る部下を諭す。


「それなら問題ないだろう。歴史を見ても、そういう愚か者は大勢いた」


 進軍に際して道を作るのは、戦術の王道と言える。細い獣道を、兵士や軍馬が通れる広い平坦な道に変えるのは、常識的な行動だ。


 ところがヴィレン大森林ではその常識は通用しない。入り組んだ地形と縦横無尽じゅうおうむじんに走る無数の小川、そして伐採されてもすぐに新たな植物が覆い尽くす生命力の強さ。これが道路建設を断念させ、ヴィレン大森林がウッド国の鉄壁の盾となっている理由の一つである。約八十年前と約百二十年前にも同じように、進軍のための道路を建設したクロス王がいたが、いずれも終わらない工事に財政が破綻しかけ、諦めさせた歴史がある。シンは前例を知っているからこそ、ダヴィ軍の行動を鼻で笑ったのだ。


 ところが、報告に来た部下は首を振る。


「私も歴史は学んでおります。しかし、今回は違います」


「何がだ?」


 部下は厳しい目をして、シンに伝える。


「尋常ではない規模です。数え切れないほどの労働者がいます。まるで国が一つ移動してきたぐらいの」


「……え? 国が一つ?」

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