第18話『歴史の亡霊』

 金歴552年を迎える。昨年はこの世界の秩序が大きく変わった年だった。クロス国崩壊後に権勢を誇った教皇は赤龍の戦いで大敗北し、太陽のごとく昇った権威は地に落ちた。七大国の勢力図は完全に崩れ、真新しいダヴィの旗印が大陸の中心に掲げられた。


 そんな激動の年も終えた。人々は生き残ったことに感謝し、新しい年を期待と共に迎えた。


 ところが動き出した時代は止まらない。もはや平穏な時は戻らないのだと、人々は年明け早々に気づかされる。


 それは、ファルム国首都のウィンで盛大に行われた儀式のせいである。


「素晴らしい天気です。これも聖女様のおぼしでしょう」


「まったく、その通りですな」


とファルム王が隣に座る教皇にお世辞を言う。確かに雲一つない晴天だが、冬のウィンには多い天気だ。驚くことではない。


(まるで主従のようだな)


とヨハンは苦々しく思う。この儀式の準備の中で、彼らは一段と親しくなった。ヨハンら重臣たちが知らない話も随分としていることだろう。この蜜月みつげつぶりを見て、ファルム国の貴族の中には、教皇にすり寄る者もを多い。ヨハンの心の中に不安といら立ちが募る。


(そして、その密談の結果がこれだ)


 ウィンの大聖堂の大礼拝場。ファルム王と教皇の一段低い場所の椅子に座るヨハンは周りを眺めた。ファルム国中から集めた正円教の司教・司祭や修道士たちと共に、貴族や騎士たちが立ち並んでいる。


 中央の一段上に、御簾が垂れている。その見えない先に、今日即位する“聖子女”がいるのだろう。教会のステンドグラスを通した、色彩豊かな光が御簾みすを飾る。


(興味はないが)


 後世の歴史家も彼と同じ意見だったらしい。歴史書の片隅に彼女の名前は載っているが、それ以外は彼女がどういう人物で、どういう経歴であったかは一切記述していない。単なる教皇の“道具”としてしか認識されていない。


 ――もっとも、そんな聖子女よりも、彼女の侍女に就任した女性の方が有名になったが。


「これで戦争は避けられなくなった……」


 ヨハンの耳に届く。隣に座るプラハ公が呟いた声だった。ヨハンはぼそぼそと話しかける。


「すでに王から内々に命令が出ています。春には攻め込むでしょう」


「王は正気でしょうか? ダヴィの土地を奪ったとしても、それは教皇の領土になるだけ。何の見返りもないでしょう」


「王はともかく、我々は何を目的に参陣するのか……」


「それに、すでに国境沿いにダヴィは城を築いていると聞いています。我々は東進するとなると、ドーナ川の海賊にも配慮しなければならない。……やれやれ、前途多難ですな!」


「おっと、儀式が始まるようだ」


 2人は声を低くする。讃美歌が流れ始め、参列者の背筋が伸びる。


 短調の重い曲調。それはファルム国の貴族たちの気持ちを表しているようだ。


(いい気なもんだ)


 この澄んだ青空に似た明るい表情をしているのは、教皇だけだ。ヨハンはこの国を食い荒らす巨大な害虫を密かににらんでいた。


 ――*――


 聖子女がファルム国で即位した情報は、世界を駆けた。これで世界に聖子女が2人存在することになる。ロースの修道会は即座に非難と破門命令を出したが、逆に教皇から破門例が出された。そして世界中の王侯貴族に対して、自分たちが正統であると主張する。


 世界は年明けのお祭り気分が消し飛び、大混乱におちいる。


「もうすぐ宣戦布告の使者が来るでしょう。こちらに攻め込むのは必至です」


とミラノスで開かれた会議でジョムニが予測する。その隣では、聖職者のルフェーブが頭を抱える。四角い眼鏡がずれた。


「このような罪深い事態になるとは……。聖女様の御心やいかに」


 ――聖女は面白がっているに違いない。ダヴィは確信していた。


 ジャンヌがジョムニに尋ねる。


「でもさ、本当に攻めてくるの? だって聖子女って言っても、あっちのは偽物でしょ? 無理やりすぎるよ!」


「これで大義名分を作ったかもしれねえが、ちと強引ですぜ。世間の反応を見て、評判が悪かったら止めるんじゃないですかい?」


とライルも言う。しかしジョムニは首を振る。


「相手はここまで踏み切ったのです。後戻りはできない」


「それに、ファルム国は名誉を重んずる国柄だ。大陸の秩序を保つバランサーとしての役割を担ってきた。七大国の地図に戻すために、多少の無茶はやりかねない。歴史がそれを物語っている」


「歴史かあ」


とスコットがあきけたような感心した声を出す。きっと自分たちには分からない、歴史の重みが彼らを動かすのだろう。ダヴィたちはその歴史という壁を乗り越えなければならない。


 アキレスが改めて戦力を比較する。


「『金獅子王の角』と呼ばれる騎士団を始めとした経験豊かな騎士たちが相手だ。兵力も多い。このままでは勝てない」


「でもよお、国境沿いに城も築いたし、準備はかなり出来たじゃねえかよ」


とミュールは言うが、ジョムニとダボットの険しい顔は変わらない。


「あれは非常用だ。使わないに限る。もしあれを落とされたら、ロースまで一直線に攻め上られてしまう。敗北は必至だろう」


「まだ南には貴族たちの残党も多いです。彼らが再び呼応して挙兵してきたら、我々は挟み撃ちになる」


「じゃあ、兵を南部に割かないといけないのか」


「その分は募兵しないといけません。間に合わせの兵士でも治安維持程度なら大丈夫でしょう。すぐに布告しましょう」


とジョムニは言い、ルツに目配せする。ルツは茶色の前髪を直しながら頷く。


 オリアナは隣に座る兄の手を机の下で握る。


「ロースの教皇派の残党には、動きはないです……もし動いたら、私がすぐに知らせます……」


「う、うん。分かった」


 彼女のなまめかしく擦る手つきに、思わずドギマギする。そんな二人の様子を、ルツが気づいてジトリと見る。


「オリアナ。変なことはしないの」


「……変なことじゃない。愛情だもん……」


「ごほん!」


 ダヴィはごまかし気味に咳払いをする。そして立ち上がって全員に宣言した。


「ファルム国が攻め込んでくるなら、俺たちは迎え撃つしかない。まだ時間はある。最後まで全力で備えるんだ!」


 ――*――


「左様か。ファルム国が……」


 ダヴィは会議終了後、聖子女の元を尋ねて報告していた。当然、彼女たちにはすでに“偽の聖子女”即位の報は届いている。


 聖子女の隣に立つカリーナは沈痛な表情を浮かべる。こうもあっさりと、ファルム国が教皇に味方したことが信じられない。


「よもや歴史と伝統を重んじるファルム国が……アレクサンダー6世の権力の触手がそこまで伸びていたということでしょうか。そこまで野放しにした我ら修道会の罪は重い」


「よせ。それを申すならば、余とて責めは免れまい。過ぎたことだ」


と聖子女はこれ以上の自責を許さない。カリーナは頭を下げた。


典女猊下げいか。こちらも新しい教皇となる方を即位させられませんか?」


とダヴィは、対抗策として提案する。しかしカリーナは首を振った。


「昨年末から何度も申し上げていますが、それは無理です。正統な教皇の即位に必要な『ロッド』はアレクサンダー6世の手元にあります。それが無ければ、正しく即位したと明言できない。アレクサンダー6世と同じ愚を犯すのは致しかねます」


 カリーナは“正しい信仰に立ち返る”ことを目指している。その有効性は理解できても、伝統を重んじたいのだろう。聖子女もカリーナに同意する。


「余は正しき道を望む。回りくどくとも、それが近道だろう」


「分かりました。……ファルム国内にも偽の聖子女への疑問の声は多いと聞いています。すぐに聖下の正統性は認められるでしょう」


「それも、お主がファルム国に勝利するのが条件であろう」


 聖子女の開かない目がダヴィに向けられる。ダヴィはウッと言葉を詰まらせた。カリーナは慌てて取りなす。


「聖下、そのようなことをおっしゃられては」


「少し意地悪だったか。フフフ……許せ、ダヴィ」


「い、いえ」


「しかし、アレクサンダー6世がこのような手段に出た以上、余は許すことは出来ない。戦争の仲裁も不可能だ。勝ってもらわねばならない」


と言って、聖子女はダヴィを手招きした。カリーナはダヴィにハッキリと伝える。


「ダヴィ殿、“いつもの”です」


「はい。“いつもの”ですか……」


 何度もやられているが、これは慣れない。しかし聖子女がダヴィにパワーを与える“儀式”なのだから、仕方ない。ダヴィは椅子から立ち上がり、聖子女の足にくっつくぐらい近くで膝をついた。


 聖子女は待ちかねたように素早く、ダヴィの身体に手を伸ばした。彼の指を触り、彼の頬を触る。彼女の細くて白い指が、ダヴィの肌をなぞる。


 カリーナはゴホンと咳ばらいをした。


「聖下、ダヴィ殿とは“かなり”親しくなりました。もうそろそろ呼び方を変えられては」


「おお、そうよな! ダヴィ、余は親しい者とは名前で呼ぶことを望む。このような非公式の場では、余を名前で呼んでくれ」


「名前ですか」


「『アニエス』と呼んでくれ」


 おそれ多い。ダヴィは動揺するままに目線を動かし、カリーナを見た。


猊下げいかも、聖下をそのように呼ばれているのですか」


「え、ええ、まあ……」


「その通りだ。カリーナも余と親しいゆえにな」


と聖子女は意地悪そうに言う。そう呼んだことはない。しかしカリーナは意を決した。


「アニエス様と普段から呼ばせてもらっています」


「そうですか……」


 ダヴィも無理やり納得した。聖子女がそう望むなら仕方ない。


「アニエス様と呼ばせてもらいます」


 アニエスは満足そうに頷く。そして彼女は椅子から身を乗り出した。ダヴィの身体にもたれかかる。


「聖下?!」


「アニエスだ」


「あ、アニエス様、一体……」


「これも“儀式”だ」


 アニエスはダヴィの頬と自分の頬を合わせる。合わせる前から赤かった彼女の頬は、合わさって一層赤みを増す。彼女の体内の血が、ダヴィの頬の温もりを求めて集まってきているようだ。ダヴィは彼女への敬意から体がこわばり、なされるがままの状態になる。


 アニエスは本当は抱きしめたかった。しかしこれ以上求めたら、自分はこの地位もかなぐり捨てて、全身で求めてしまうだろう。その予感が彼女を押し止める。彼の肩に手を置くのがやっとだ。


「ダヴィ」


 アニエスの吐息が、ダヴィの耳飾りを揺らした。カリーナが目を瞑って見ないでいてくれるのを良いことに、彼女はもっと引っ付く。そしてダヴィの顔全体を、アニエスの銀髪が包んだ。


 彼女はダヴィに頼む。


「必ずファルム国に勝て」


 はい、とダヴィは言おうとした。しかし喉の奥で引っかかって、くぐもった声が出る。アニエスは気にせず、こう続けた。


「そして余に、いや、この世界に、新しい時代を見せてくれ」

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