第17話『おしゃべりな画家』

 マザールが病気になった。ダヴィとジョムニはその一報を聞き、すぐに馬車でフィレスの屋敷へと向かった。


 彼らはコートを身にまとい、海からの冷たい風に備える。カシャリと音がして下を向くと、ダヴィの靴が枯葉を踏みつぶしていた。


「ダメですよ」


とジョムニが注意する。ダヴィが驚いて、馬車に乗り込んだ後に尋ねる。


「なにが?」


「また靴を磨いたいと思ったでしょう。それは許しませんよ」


 ちがう、と言いたかったが、口をつぐんだ。この場で思わずとも、それはダヴィの願望だった。ジョムニは、彼の耳に下がる金の輪が静かに揺れるのを見て、ため息をつく。


「何度も言いたくはありませんが、ダヴィ様は国王なのです。軽率な行動は慎んでもらわないと」


「でも……靴を磨くだけだよ」


「それを庶民が見て、尊敬されると思われるなら、存分になさって下さい」


 ダヴィは「むう」と口を尖らせる。靴磨きが職業の中でも下級に見られている現状は否定できない。しかしながら、彼はやりたいのだ。


「せめて身内だけにしてください」


と言うジョムニをしり目に、ダヴィは普段は慎重なくせに、この件ばかりは城を抜け出してでもやってやろうと決めるのだった。


 それから一日かけて、ジョムニの小言を聞いているうちに、2人の馬車はマザールの家にたどり着いた。


「陛下。ようこそお越しくださいました」


 玄関から出てきたのは、ミセス・ジュールだ。数年前に比べると、白髪頭のボリュームも減り、手足はもっと細るなど、老いは隠せない。しかし今日も背筋を鉄杭のように伸ばして挨拶するのは流石である、とダヴィは感じた。ダヴィはジョムニの車いすを組み立てながら挨拶する。


「お久しぶりです、ミセス・ジュール」


「ご無沙汰していました」


「ジョムニもいらっしゃい。さあ、車いすに乗せてあげましょう」


 夫人はまだ馬車の中にいたジョムニを抱えようとする。ジョムニは驚く。


「やめてください! もう成長したんですから」


「そんなこと言って、私たちの家にいた頃は抱えられていたじゃない。ふんっ……あら? 随分と重くなったわ」


「もう大人なんです。これでも上半身は筋肉が付きました」


「本当ねえ。腰が抜けそう。私じゃもう抱えられないわね」


と寂しそうに笑いながら、夫人はジョムニの頭を青いキャスケット帽の上からポンポンと叩いた。ジョムニは恥ずかしいような、ふてくされたような顔をした。


 そんな夫人に代わって、ダヴィがジョムニを車いすに乗せた。そして3人は家に入る。


「先生のご体調はいかがですか?」


「今日は調子がいいみたいだわ。あなたたち以外も来ていることだし」


「私たち以外?」


 その時、マザールの声が部屋の扉の隙間から聞こえてきた。そしてその声をかき消すように、男の大きくて早口な言葉が聞こえてくる。


 夫人は顔をしかめる。


「やかましい子だけどねえ」


 扉を開けた先には、ベッドの上で上半身を持ち上げたマザールがいた。そしてベッドの傍らの椅子に座る男が、マザールの顔を覗き込みように話しかけ続ける。


「いいですか、先生。この絵は僕の華やかで、繊細な心の動きを表しているのです。ほら、ここの色とかキレイでしょ! 今は昼間ですが、夜のロウソクの明かりに照らされると、さらに素晴らしくなりますよ。怪しく、そして優美に輝くのです。そう、僕のように!」


「この絵を売りに来たのか、お前を売りに来たのか、どっちじゃ?」


と皮肉をストレートに言うが、長い黒髪を頭の後ろで束ねた男は口を止めない。手に持っていた絵を床に置き、中分にした長い前髪をかき上げる。


「ああ、残念ながら、僕は売れません。世界中にいる可憐なる女性たちが悲しんでしまうから。恋文をくれたジョゼフィーヌ。熱い目配せを送ったローリエ。そして僕の手をつかんで離さなかったエミリー。この他大勢の女性たちを泣かせてはいけない」


「その女性たちに買ってもらえばいいじゃろう」


「それはノーです! 残念ながら僕を愛する女性たちもこの絵の良さは分かってくれなかった。彼女たちは酷いことに、この絵を見るとため息ばかりだ! この美しい身に惚れても、本物の美を見抜く方はごくわずか。ああ、聖女様よ! 僕を理解してくれるのはあなただけかもしれない」


「まったく……」


とマザールが閉口していた時、扉に現れた2人を見て息を吹き返す。目に微笑みを含ませて、手招きする。


「おお! ダヴィ。ジョムニ。よく来た。さあ、お前はどっか行ってくれ」


「先生! 僕は主役ですよ! 舞台から去らせるのはまだ早い」


と言って、男はどかない。ダヴィたちは仕方なく、男とは反対側のベッドの傍に椅子を置いて座った。マザールは白い髭を撫でて、長い息を吐いた。


「先生、お元気そうで」


「元気にもなるわい。ダヴィ、いきなりで悪いが、こやつを追い出してくれ」


「この方は?」


「画家ですよ」


と男は答える。先ほどの自信あふれる言葉を裏付ける端正な顔立ちを向ける。そしてダヴィの変わった眼と耳飾りに興味を引かれたのか、目を輝かせる。


「これはこれは、珍しいお方だ。どうか僕のモデルになってくれませんか」


「め、めずらしい……」


「これ、マセノ! ダヴィは儂の弟子じゃが、今ではこの国の王ぞ」


 しかしマセノは平然と首を振り、肩をすくめた。


「あいにくと、男には興味がないので」


 ダヴィとマザールは苦笑いしたが、ジョムニは違う。明白に機嫌が悪くなり、険のある言葉を発した。彼もダヴィのファンの一人である。


「あまりにも無礼ですよ! ダヴィ様は聖子女様を助け、教皇の魔の手からこの国を救ったのです」


「戦争や政治にも興味なくてね……」


 飄々ひょうひょうとした顔で答える。しかし、聖子女という言葉にはピンときた。


「聖子女様はどんなお方だい? さぞかし清純で素晴らしいお方なんだろう」


「マセノ。お主は仮にも儂の生徒じゃった男だ。もう少し、女以外にも興味を持て」


「生徒? 神学校の生徒なんですか」


「もう退学したけどね」


とマセノが言う。マザールは改めて彼を紹介した。


「こやつは去年まで神学校に通っていた者じゃ。その頃からサボりがちで、ジョムニとは面識がないぐらい学校にはおらんかった。……しかし、軍事の才は本物じゃよ」


「え? 軍事?」


「兵棋演習では誰もが一目置いていた。もっとも、出席日数が足らずに落第していたがのう」


 師に褒められるが、マセノは苦い顔をするだけだ。嬉しくもなんともない。


「軍事なんて不粋ですよ! 僕は華やかな芸術の才能があるんだ」


「とは言っても、まだ一枚も売れてはいないじゃろうに」


「だから言ったでしょう。本物の美を見抜く人は少ないと」


 ダヴィはマセノにその絵を見せてもらった。そこには人の形を成していない、絵の具を叩きつけただけと言ってよい、落書きがあった。


(これが、自画像……?)


「これでは売れませんね」


とジョムニが薄ら笑いを浮かべてハッキリと言う。マセノは意に介さず、逆にジョムニを馬鹿にした。


「ほら。芸術を分からない人が、僕の絵のすばらしさを理解できるはずがない」


 自信を全く失わない彼に対し、マザールはため息交じりに忠告する。


「お主はいつまでこうしているつもりなんじゃ。模写旅行か何か知らんが、いつもフラフラしおって。今使っている画材も、その服も、女性たちの貢物みつぎものじゃろうに」


「変な言い方しないでください。皆、僕のパ・ト・ロ・ンですよ。描きたいものが多すぎる僕の気持ちを汲んで、いつも旅費を出してくれるんだ」


「もうそろそろ自分で稼ぐ気はないかのう? どうじゃ、ダヴィに仕えては」


「えーと、先生?」


とダヴィは戸惑う。隣のジョムニも眉をひそめる。とてもじゃないが、こんな画家崩れの男に一部隊も任せられない。先ほどの軍事の才能の話も、眉唾物だ。


 ダヴィは断ろうとした。ところがマセノの方から先に断ってきた。


「ノー! それは嫌ですよ、先生。僕は芸術史に名を残すんだ」


「そうは言っても、この絵では、のう……」


「それに、僕はこの人の下では働けませんよ」


 マセノはダヴィの顔を真っすぐ見つめる。その目元に真剣さを感じて、ダヴィはドキリとした。思わず尋ねる。


「どうしてですか?」


「だって、あなたは異教徒との融和政策を採っているでしょう。政権内にも異教徒が多いと聞きます」


 マセノは顔をしかめる。そしてハッキリと言及する。


「僕は異教徒が嫌いなのさ」

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