第24話『この世で最も聖なる女性』

 雨は続く。強弱はあれども、この数日降り続く。


 ナポラの中でも高台にあるナポラ城に被害はないが、住宅が広がる低い場所は水に浸かってしまった。住民たちは水が来ない城の端に移動し、兵士たちも城内や城壁の上に移動した。聞こえ続ける雨音に、人々は怯える。


 アンドレたちは城の窓から雨を眺めていた。暖炉に火を点けるが、薪が流されてしまったために、火は小さい。ジョルジュは体を擦りながら、報告をする。


「この城に続く山道も雨の被害に遭い、崩れたそうです。食糧の運搬が完全にストップしました。このままでは、二日後に食糧が尽きます」


「…………」


「兵士たちの中に脱走する者も出始めました。もっとも、この状態ですから、兵士の数の把握すら出来ません。士気は著しく下がり、武器や防具を投げ出す者も」


「もういい」


 アンドレが手を上げて、止めさせる。これ以上聞き続ければ、頭が割れそうになる。あと一歩のところまでダヴィを追い詰めたというのに、この大雨で逃した。そして逆に、自分たちがピンチになっている。事態の急変に、精神がおかしくなりそうだ。


 総大将として、判断を迫られている。その判断とは、決まっている。


(しかし、ここで退けば……)


 教皇たちから何度も催促が来ている中、ダヴィの首を取らずに撤退しては、教皇と祭司庁の顔に泥を塗ることになる。そしてアンドレの立場が危うくなる。それは避けたいが、この状況から目をそらすことは出来ない。


 アンドレが口を開きかけたその時、別のところから声が聞こえた。


「一度、退きましょうか」


 アンドレとジョルジュがギョッと目を向けると、窓辺に立ち、外を見つめるベルナールが、再度言う。


「小生から撤退を進言します、アンドレ殿。これでよろしいでしょう」


「あ、ああ……」


 教皇軍の中でも一番の強硬派である赤蛇の聖騎士団の首領・ベルナールからの進言ともあれば、教皇も納得せざるを得ない。アンドレの責任も軽くなる。


 しかし意外だ。ベルナールはこの状況でも執拗に敵を追い詰めようとするだろうとアンドレとジョムニは考えていた。その理由を模索していると、ベルナールの方から答えを出した。


「ナポラは徹底的に破壊しなければなりません」


「なんだと?」


「ナポラの街並みやその住民を傷つけずに、生ぬるい戦いを続けていたから、ダヴィを追い詰められなかったのです。この撤退を見れば、教皇様もお考えが変わりましょう。ナポラは悪の巣窟そうくつであり、灰燼かいじんに帰す必要があると」


 ベルナールは振り返る。その目を見て、2人は息を飲んだ。薄く開かれた瞳に、赤黒い怒りが灯っている。


 彼は宣言する。


「次こそはこの街ごと、火中に沈めることを誓いましょう」


 その翌日、教皇軍は撤退した。ダヴィ軍はそれが偽りではないと判断すると、荷物をまとめてナポラ城に入った。


 小雨が降る中、彼らへの歓迎の声はなかった。ぐしゃぐしゃにぬかるんだ大通りを、静かに行軍する。ナポラにいた人々は道沿いから見つめていた。もう声を出す力もないのか、寒さに震えながら、ジッと眺めるばかりである。


 ミュールは変わり果てた故郷を眺める。道には濁流に運ばれた廃材と汚物がたまる。屋根が崩れた家の軒先に、汚れた衣服をまとう家族が身を寄せ合っている。ナポラの人々の顔に生気はなく、一週間前には笑い合っていた知人は崩れた柱に寄りかかっている。まるで亡霊だ。


「これが、勝利なのかよ……」


 今まで経験してきた勝利の後とは、凱旋がいせんで大盛り上がりして、町中をひっくり返すようにバカ騒ぎをしてきた。


(これじゃあ、敗北じゃねえか)


 ダヴィもこの状況を確認する。彼は脳裏で次の展開を予測する。


(これでは、次に攻めてこられたら耐えられない)


 左足の傷が痛む。周りには左目と左肩に包帯を巻いたアキレスがいる。ルツやオリアナ、スールのドレスは破け、エラはダヴィの前で眠りこけている。心なしか、彼らを乗せているブーケにも元気はない。兵士たちも傷つき、疲れ果てている。


 ダヴィはそれでも前を向く。


(まずは助かった。あとはルフェーブ、頼んだよ)


 金歴550年晩秋。霧雨に身を濡らす中、ダヴィ軍は辛くも生きながらえた。誰の顔にも笑顔がない、灰色の勝利を手にした。


 ――*――


 やっとここまで来た。


 ルフェーブは扉の前で待ちながら、今までの苦労を振り返る。自分やジョムニ、そしてジョムニの師であるマザールの、ありとあらゆる伝手を使って、この機会を手繰り寄せた。教皇に知られてはいけない。神経をとがらせる日々が続いた。


 しかしこれからが本番だ。ここで失敗しては、元も子もない。ダヴィたちは戦い抜いたと聞く。次は自分の番だ。


「準備が整えられました」


 修道士に声をかけられ、ルフェーブは背筋を伸ばす。将来の才覚で祭司庁をかなりの高位まで出世した彼ではあったが、この聖域に入ることは初めてである。そしてこの先にいる人と直接話すことも初めてだ。


 扉が開かれる。天井が高く、巨大な柱が建ち並ぶ。ステンドグラスから入り込む色とりどりの光を受けながら、ルフェーブは長く伸びた絨毯じゅうたんを真っすぐ進んでいく。絨毯じゅうたんを取り囲むように彫像が並び、ルフェーブは威圧を感じる。


 絨毯じゅうたんの先には、2人の女性がいた。1人は椅子に座り、もう1人はその傍らに立つ。いずれも白い僧服を身にまとう。大きな聖女像を背中の後ろに置き、彼を待つ。


 ルフェーブは2人の前でひざまづいた。立っていた女性が尋ねる。


「ルフェーブ=ローレン殿ですね」


「はい」


 ルフェーブは顔を上げる。彼女たちは白いベールに頭を包み、それぞれの顔をその間から覗かせていた。立つ女性はつり目を向けて、ルフェーブに言う。


「私はカリーナ=ベートと申します。修道院典女(修道院における最高位のひとつ)を務めております。そしてここにおわす方が」


 カリーナが右手を広げて示す。


「あなたが会いたかったお人です」


 ルフェーブは再び頭を下げる。手に汗がにじむのが分かる。


 椅子に座る女性は顔を動かした。しかしまぶたは開けない。銀色の長い髪とまつ毛がベールからこぼれ見える。


 ルフェーブはずり落ちそうなメガネを直すことなく、声が震えそうになるのを抑えて挨拶する。


「お初にお目にかかり光栄です、聖下」


「聖下、お言葉を」


 聖下とは聖子女への敬称である。カリーナにうながされ、聖子女は頷く。そしてこの静寂な空間にふさわしい、湧き水のような澄んだ声を発した。


「余に外の様子を教え申せ」

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