第25話『聖子女の教書』
「聖子女様」
カリーナが椅子に座る聖子女に声をかける。彼女は立ち上がり、左手を差し出す。
「部屋まで案内しなさい」
「はい」
聖子女は“目が見えない”。まぶたを閉じたまま、カリーナの手を取って歩き始める。頭を覆うベールの下から伸びる銀色の髪が、廊下の窓から入る光に照らされて輝く。
カリーナは普通の背丈の女性だ。しかし聖子女はかなりの長身で、彼女の隣に並ぶと光がさえぎられる。細身の2人が廊下を進んでいく。
先ほど、ルフェーブは帰った。彼は聖子女たちに
ルフェーブは肩を落として退出した。しかし彼の
「教皇
と語気に怒りを込めて言う。本当なら「
賄賂、汚職、略奪、殺人……。これらを最も高位の聖職者が指示していると、証拠と合わせて教えられた。カリーナは気が遠くなりそうになる。
「明白に、正円教の教えを
「…………」
ここで再度、正円教の組織について説明する。
正円教とはこの大陸で最も支持を集めていて、聖女信仰を源としている宗教団体である。その総本山はロースにあり、そのトップは聖子女が務める。聖子女は十年に一度、若年の修道女の中から選出され、聖女の成り代わりとして崇められる。盲目であったと伝わる聖女と同じようにするため、選出された時に“目を潰される”。
そんな聖子女を支えるのは、修道院と祭司庁の役割である。修道院は聖子女の世話と聖女の教えの研究を
ところが現在の祭司庁の教皇の暴走により、その在り方は
「このままでは祭司庁は聖女様の教えを歪め、最終的には聖子女様を
「カリーナ、口が過ぎる」
カリーナはハッと気が付いて、頭を下げる。そして手を合わせて祈る。
「憤怒に身を任すところでした。お許しください」
聖子女はこくりと頷いたが、カリーナの懸念はよく分かる。教皇及び祭司庁は教皇領を所有してから極端に世俗化してしまった。今では強力な軍隊を持ち、クロス国を滅ぼすまでに至る。そしてそのやり方は世俗の君主と比べても汚らしい。
聖子女は自分の考えを伝える前に、彼女に確認する。
「教皇と対立するダヴィ=イスルとは、どのような君主か」
「品行方正、清廉潔白。欲少なく、正円教を強く信仰していると、ルフェーブ殿は申しておりました。修道院で確認いたしますが、先日ナポラの民を率いて教皇猊下の大軍を退けたと聞きます。それだけでも
聖子女の中でぼんやりとダヴィの姿が構築される。戦術巧みな武人で、人心を掌握するのが上手な指導者。自身も正円教をまとめる身として、興味がわいた。
彼女は決めた。
「この戦いの原因は、教皇がダヴィの婚約者を殺害したと聞いた」
「はい、その通りでございます」
「では、その事件の真相を確かめるのが筋と考える。両者に一時停戦を
カリーナはまた手を合わせる。
「素晴らしいお考え、カリーナ感動いたしました。それではすぐに、私から両者に命じましょう」
「いや、余の名で命ずる」
カリーナは目を丸くする。今までの歴史では、聖子女の考えは修道院を通じて伝達される。それを聖子女自らが発信することは異例のことだ。
「聖子女様、それには反対致します。前例がございません」
「このような事態こそ、前例にない。それに、現在の祭司庁が素直に修道院の命令に従うとは、余は考えない」
そして聖子女はカリーナに命じる。
「筆と硯を用意いたせ。そして代筆いたせ」
「わ、わかりました」
「ふふふ、余の手紙なのに、自ら書けないとは。この身は不便なことよ」
――*――
この聖子女の行動は、後の歴史書には『始めて聖子女が政治介入した事件』と記録されている。この時に彼女が出した手紙は『聖子女の教書』と記録された。
この手紙はダヴィと教皇だけではなく、その複製が各国の君主にまで送られた。その結果、貴族や騎士たちや知識人たちにすぐさま知られる事態となり、彼らの間で様々な議論が巻き起こった。
ダヴィは当然、この手紙に喜んだ。
「ルフェーブ、よくやってくれた!」
「はい」
ダヴィが両手で握手してきたのを、ルフェーブはメガネの奥に涙を浮かべた。これまでの苦労が報われる。ダヴィもゲリラ戦の疲れが癒えていくのを感じる。
ダヴィは教皇と戦い始める前から、これを狙っていた。以前ジョムニが『世界の王』と評した教皇と対立する以上、味方が必要だった。そしてその味方とは、教皇よりも強い立場の人、すなわち聖子女に他ならない。彼女の支持を得られるかどうかが、ダヴィの戦いの肝であった。
ルフェーブは熱くなった目頭をハンカチで拭った後、自分の見解を話す。
「この手紙で、聖子女様がこちらに気持ちを向けられていることが分かります。この裁判が開かれるなら、こちらの有利に物事が進むでしょう。あとは……」
「分かっている」
ダヴィは手紙を眺めながら、頭に手を添えて悩む。
「教皇の動きだな」
教皇は激怒した。イライラして、その手紙を強く握る。しかし聖子女の名前が書かれたそれを破くことは出来ないと、なけなしの理性が食い止める。
彼の側近が顔を真っ青にしている。
「聖子女様の命令は逆らえません。裁判も修道院主導で行うと通達があり、祭司庁が入り込めないようになっています」
「それも、聖子女様の意向か」
「ご意向でしょう。修道院がわざわざ教皇様を排除するはずがありません」
教皇は考える。この処置を見ると、聖子女とその周りは教皇たちを嫌っている。欲を一切排除した彼女たちとは元々感性が合わなかった。祭司庁が世俗的な力をつけるのも反対だろう。
しかし、ここで止めるわけはいけない。自分が世界を導くのだと使命を持つ教皇は、自分の政策が間違っているとは全く思っていない。そしてこの政策は上手く進んでいる。敵対するダヴィもあとわずかで滅ぼせる。
聖子女の命令は、そんな彼の野望に氷水をかけた。このままでは教皇の野望は清廉な教えの維持の名のもとに食い止められる。さらには裁判の行方次第では、教皇位も危うくなるかもしれない。
教皇の心の中に、もやもやと黒雲がわいてきた。だいたい聖子女も修道院も、自分が領土や財産を増やして裕福になったではないか。言わば、自分が彼女たちを養っているのだ。それなのに飼い主の手を噛むような行為が正しいはずがない。たとえ、それが聖女の意向だとしても。
「……すぐに調べてほしいことがある」
「なんでしょうか」
「聖子女が死んだ時、どのような対処になる?」
「は?」
教皇は声を落とし、もう一度聞く。
「聖子女が“不慮の事故”で死んだ時、どのような処置をしたか、歴史書を調べよ」
側近は頭を下げて、すぐにその場を後にした。彼は怖かった。恐ろしいことを考える教皇の目を見る勇気が無かったし、それに加担する自分の運命を直視できなかった。
教皇は独り、微笑む。自分の力に酔いしれる。外では木枯らしが吹き始めたが、それすらも止めてしまうのではないかと思っていた。
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