第38話『破滅』
きれいな月だ、とトリシャは思った。
山を抜ける街道、両側を森に挟まれた一本道、その木々で覆われた狭い隙間の空に、黄色い三日月が浮かぶ。
平穏な気持ちで眺めていたトリシャと違い、御者は
「すみません、すっかり暗くなっちまって。もう少し早く着けるはずだったのに」
「いいのよ。安全運転でお願いするわね」
そもそも無理を言って、この山を越えた街に宿泊をしようといったのは、トリシャのなのだ。むしろ彼女の方が責任を感じていた。
彼女がこだわった理由は、次の街がダヴィの支配下に置かれているからだ。彼女は早くダヴィの国を見たかった。ダヴィからこまめに届く手紙によれば、その街にアキレスが待ってくれているという。
そこから2日走れば、ダヴィが待つナポラにたどり着く。それを思うと、夜通し走ってもらい、早く会いたいぐらいだ。
そんなことを考えて、トリシャは1人クスリと笑っていると、前方から大きな音が聞こえてきた。
「誰か来ます」
隣で走る騎士たちが、身構える。向こうから無数の馬が駆ける音が聞こえ、森で眠りかけていた鳥たちが騒ぎ出す。トリシャは自分の肩を抱いて、怖さを我慢する。
やがて見えてきた影に、御者は「あっ」と声を出した。
「教皇様の騎士だ!」
やって来た騎兵たちの胸元に、真円のマークが見える。そして正円教の旗を掲げている。御者と騎兵はホッと息をついた。彼らはダヴィと教皇が同盟していることを知っている。
「味方なの?」
「教皇様直轄の神聖なる騎士団です。味方ですよ。さあ、ご挨拶しましょう」
人々を守る存在として名高い騎士団だ。これに出くわして挨拶すると、旅の脅威から守られると伝わっている。トリシャはすぐに馬車を降り、馬を降りた御者と騎兵たちと共に、道端で手を合わせた。
トリシャは好奇心を抑えられず、チラリと騎兵団の一人を見上げた。
(あら?)
目が血走っている。月明かりに照らされた頬当ての奥に、大きな目がギラギラと輝く。
その先頭にいた一人が、馬車の上に掲げられたダヴィの旗を見つけた。祈り続ける兵士に話しかける。
「ダヴィ=イスルの妻となる、トリシャ=リンドとその従者か」
「はい、その通りでございます」
「そうか」
トリシャが見つめていた目が、ぐにゃりと曲がる。笑ったと気づくまで、少し間があった。
その時だった。
「なっ……はっ……!」
その騎兵が持っていた槍が伸び、護衛の兵士の胸を貫いた。突然のことに、兵士は訳も分からず目を見開き、口と傷口から血を噴き出して倒れる。彼の血が頬に飛び付き、トリシャが叫んだ。
「きゃああああああああ!」
「全員殺せ!」
「うわああああああああ!」
トリシャは恐怖に耐えきれず顔を両手で覆い、身を縮こませて、その場でうずくまる。腰が抜けた御者は、這いずって逃げようとしていた。
「お、おたすけください! おらは何にも悪いこと、してねえ!」
「ふん!」
助けを求める御者の背中に、無情にも槍が突き刺さる。体を貫いた槍を抜くことが出来ず、御者はバタバタと手足を動かした後、やがて静かになった。
馬車の周りに、血の海が出来た。その中心で、トリシャはガタガタと震える。
彼女の周りを、騎兵が取り囲んだ。
「立て。こちらを見よ」
ガシャガシャと武器を鳴らしながら、命令する。トリシャは恐怖に
騎兵は笑い声をもらしながら、血走った眼で言う。
「罪人の妻め。
トリシャの震えが止まった。その騎兵の目を真正面から見つめ返す。そして問う。
「ダヴィは、私の夫は、罪人なのでしょうか」
「民を惑わし、戦乱を起こし、国を滅ぼした。それが罪といわず、なんと言えようか」
そして騎兵はこう続ける。
「我らは崇高なる教皇様の命を受けて、ダヴィ=イスルとそれに与する者どもに罰を与える! これぞ、聖女様の偉大なるお導きであり、この世の正義である!」
騎兵たちは「おおお!」と雄たけびを上げた。その声に鳥たちが飛び立ち、森が騒ぐ。
その騎兵たちの眼下で、トリシャはぼそりと呟く。
「……あきれた」
「なに?」
彼女は精一杯の勇気を振り絞り、男たちに言い放つ。
「ダヴィは優しくて、強い男よ! 彼は人々の目を覚まし、その先頭に立って戦ったわ。人々を騙し続けて、恐怖で押さえつけているのは、あなたたちの方じゃないの!!」
トリシャは白くなった唇を動かす。月光に照らされる青白い舞台に、彼女の金色の長髪が輝く。
騎兵たちの目じりが吊り上がる。槍をわざとらしく動かし、もう一度尋ねる。
「許しを乞え」
「聖女様に許しを乞うのは、あなたたちよ。教皇の名の下でしか正義をかざせない、卑怯者だわ」
トリシャの背筋が伸びる。彼女の
彼女は主役だ。もはや、周りの端役を恐れない。
「おのれえええええええ!」
彼女の叱責に、彼らは激怒した。怒号が森を
槍の穂先が彼女の喉を貫いた。
(あっ)
トリシャの喉から血がふき出す。もう呼吸できない。ゴボゴボと体の中で音が鳴る。
ダヴィの顔が思い浮かぶ。苦しみの中で、愛する人に語りかけた。
(ごめんね、ダヴィ……もう、歌ってあげられないわ……)
次々と襲いかかる獣のような攻撃の中、彼女は痛みもつらさも感じられなくなった。薄れゆく意識の中で、ただ、悲しさを感じた。
――*――
「こちらです、アキレス様!」
「どこだ!」
街道を必死に駆ける。街に逃げ込んできた行商人からの通報を受けて、待機していたアキレスが馬をむち打ち、風のように走っていく。
噴き出す汗の中に、冷や汗が混じる。
(トリシャ様に万が一のことがあったら!)
部下たちも無我夢中で、彼と案内人の後をついて行く。砂ぼこりを巻き上げ、木々が覆いかぶさる暗い山道を疾走する。
やがて、彼らはたどり着いた。
「は……あ……」
森林が切り開かれた街道の真ん中に、それはあった。数基の巨大な十字架が地面を突き刺し、そびえ立つ。
そこに、人間の身体が、吊るされていた。衣服をはぎ取られ、裸の身体が見えている。
「トリシャ……さま……」
アキレスの手から、パルチザンがすべり落ちた。
真ん中の十字架に、金髪の女性が掲げられている。首をうなだれ、無残に切り刻まれた身体の傷から、血が流れる。まるで絵画のように、夜空に浮かび上がる。
「なぜ……」
その腹部に、焼き印が押されていた。月光に照らされる青白い身体に、黒々と“真円”が付けられている。
傾いた三日月が笑う。鳥たちが不気味に鳴く。
ダヴィ最大の危機、『黒円の大乱』の始まりを告げていた。
第三章 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます