第26話『ナポラ南の戦い』
闇は人にとって敵だ。昼行性であり、敏感な嗅覚と強靭な身体能力を捨てた人類にとって、危険を察することが鈍くなる夜の暗さは、恐怖の対象である。そのため、人は基本、夜には活動しない。安全なところでジッと身を隠す。
そういう人類にとって、一番危険な時は、夜に向かう時刻かもしれない。視野が暗くなり、安全な場所へ急ぐ足に、危機が忍び寄る夕方。
別名を、
「押すんじゃねえよ」
「早く行けよ」
細い山道を進んでいくクロス軍の兵士の、いら立つ声が聞こえる。高い岩山で挟まれた山道はすでに暗く、太陽は数時間前には、山際の向こうへ隠れてしまった。松明を灯さないと、足元すらおぼつかない。
馬に乗る指揮官の声が響く。
「さっさと進め!ナポラまでもうすぐだ。キビキビ歩け」
昼間にたっぷりと休息を取ったとはいえ、この時間の行動は辛い。山道の土を踏みしめる音の中に、兵士たちのため息が紛れ込む。
その様子を、高いところから眺める影があった。背の低い丸い影と、のっぽで細長い影が、岩肌に伸びる。
「へへへ、みんな間抜けな面しているぜ」
「だんなに報告だあ」
――*――
この時間にクロス軍が行動するのは、理由がある。それはカラッチ公に届けられた、ナポラの民からの手紙である。
『日が暮れると同時に、ナポラの中でダヴィ=イスルに反乱を起こします。城門を開けますので、その隙に攻め入ってください』
「まったく、我々に指示をするとは」
と文句を言うカラッチ公だが、その顔は緩んでいる。山間の城に攻め込むとあって、多少時間がかかることを覚悟していたが、この様子だと明日には城に入ることが出来るだろう。
カラッチ公は再びその密書を開いた。その最後の部分を読んで、また鼻で
『……ダヴィ=イスルにそそのかされて、大罪を犯した罪深い私たちをお許しください。汚らしい平民ではありますが、クロス王のご慈悲を
「今更気づくとは、つくづく馬鹿なやつらだ」
どうせ、事の重大さに気が付いて、我々の大軍が押し寄せてくることに恐怖して、あわててこの手紙を送ってきたに違いない。先日、ダヴィを認めるようにと、クロス王宛に出した書状に書かれていた各代表者の名前が、その密書にも署名されていた。
主だった庶民の代表が寝返るとなると、組織的な抵抗は出来まい。カラッチ公はほくそ笑み、自慢の長い髭を撫でた。隣にいた騎士が彼に話しかける。
「しかし、この者たちをお許しになるのですか?」
「そんなわけないだろう。一度、反抗したことには変わりない。何名かを縛り首にして、見せしめにしてやる」
「それは、ナポラの連中も驚くでしょうな」
ハハハ、とカラッチ公たちの笑い声が響く。
もしかしたら、その声すら聞こえていたのかもしれない。ナポラ郊外に設置した陣内、ダヴィの隣でジョムニは、ライルとスコットの報告を聞いて、ニヤリと笑う。
「もうそろそろ、いいでしょう」
「よし……」
ダヴィは伝令を集めて、指示を伝えた。
「作戦開始だ。炎をあげるんだ。僕たちの力を見せつけてやろう!」
――*――
「なんだ?」
と兵士の一人は指をさす。ナポラの方の空が、急に赤く染まっていく。自然の現象ではない。それに、黒煙も上がっている。
すぐにカラッチ公のもとに、報告が来た。彼は舌打ちする。
「ちっ、待ちきれなかったのか!」
ナポラの民がクロス軍を待たずに反乱を始めたと、彼は推察する。これだから能無しの庶民は役に立たないと、悪態をつきそうになる。
しかし、彼らの反乱が鎮圧されてしまうと、ナポラを落としにくくなってしまうかもしれない。カラッチ公はいら立ちながら、部下に命じる。
「部隊を急がせろ!ナポラを急襲するのだ!」
行軍のスピードが速くなり、駆け足で山道を進むクロス軍。その隊列がみるみるうちに細くなる。
へとへとになった彼らの耳に聞こえてきたのは、地響きを伴う巨大な音だった。
「なんだ?!」
「がけ崩れだ!」
ドドドドドドドドド。牛ほどある大きさの、無数の岩石が、山の上から降り注ぐ。クロス軍の悲鳴と、岩同士がぶつかる音が、山間に響く。
その音が鎮まった時、多数の犠牲者と共に、山道は岩石で封鎖された。
それは一か所ではなかった。
「閣下!前方も後方も、塞がれました!」
「なに?だとすると、これは……」
作為的なもの。彼は
彼の頭上、岩山の頂上に、複数の兵士の影があった。彼らは眼下を見るたびに怖気づく。
「てめえら!ビビってんじゃねえぞ!」
「でもよお、ミュール。下、何にも見えねえじゃねえかよ」
頂上から見る山道は、ぽっかりと空いた穴のようだった。クロス軍が持つ松明だけが、小さく光っているが、彼らの様子は全く分からない。
闇。前述した通り、人間が本能的に嫌うものだ。しかも敵がうごめいている。
ここに飛び込むには、圧倒的な『勇気』が必要だ。
「ナポラの男が、そんなんでどうするんだ!」
「そんなこと言ったって……」
「俺たちがダヴィ様を勝たせるんだ!行くぞ!」
ミュールは剣を抜いた。松明の火に、彼のオールバックと傷だらけの顔、そして鷹のように鋭い目が輝く。
「俺についてこい!」
ミュールは先頭を切って、山を下り始めた。真っ逆さまに落ちるごとく、駆け足で闇に飛び込む。
「俺たちも行くぞ!」
「さあ、突撃だよ!」
アキレスとジャンヌも続く。2人は器用に馬を操って、乗りながら下っていく。彼らの先導に、兵士たちも勇気づけられて、次々と暗闇に足を進めた。
『勇気の塊』。この戦いが終わった後に、ダヴィからそう褒めたたえられる、ミュールの真骨頂である。
崖下のクロス軍は当然驚愕した。カラッチ公も愕然とする。
「なっ……」
「閣下を守れ!撃退しろ!」
騎士たちはカラッチ公を囲む。この攻撃は明らかに、この軍の総大将である彼を狙ったものである。彼を逃がすことをまず考えた。
しかしながら、身動きが取れない。狭い道に敵味方がひしめき、しかも暗さでその判別すら難しい。ナポラの連中の方が、装備がボロいことだけが、その判別の頼りである。
次々とクロス軍の兵士が倒れていく。それはカラッチ公の周りにいる騎士も同じだ。
「うっ」
一人の騎士が喉に矢を生やし、馬から転げ落ちる。それを放ったジャンヌの声が響いた。
「見つけたよ!あれが総大将だ」
草原出身で夜目が利く彼女が、最初に見つけ出す。それを聞いて、ダヴィ軍が集まってきた。
カラッチ公は焦った。
「突破しろ!」
「しかし、味方も蹴飛ばす可能性が」
「構わん。行け!」
カラッチ公たちは馬にむち打ち、駆け出し始める。その途中、敵か味方か分からない影を蹴飛ばしながら、山道を駆け抜けていく。
その行く手に、立つ姿があった。
「ここは通さん!」
アキレスが重いパルチザンの槍を振り回す。2人の騎士が彼に襲いかかった。
「そこをどけ!」
アキレスは最初に攻撃してきた騎士の槍をはじき、その腕にパルチザンを振りおろす。鎧で覆われていたはずの片腕が斬りちぎれ、鮮血と共に宙へと舞った。
彼の攻撃は止まらない。次の騎士の突いてきた槍よりも早く、その騎士の目を突いた。
「かはっ、ぐう……」
「終わりだ」
パルチザンの幅広な刃が両目を貫き、脳にまで達する。暗闇で色の分からない液体を垂れ流し、騎士の身体は地面に転げ落ちた。
カラッチ公たちは恐れおののく。
「閣下、ここは我らが防ぎます!」
「わ、わかった」
「待て!」
騎士たちが決死の攻撃を仕掛ける中で、カラッチ公はアキレスの横を駆け抜けた。背中越しに聞こえる部下たちの悲鳴に、馬の手綱を握る力が強くなる。
やがて目の前に、岩石の山が見えてきた。ここを越えれば、味方の大軍にたどり着くはずだ。
カラッチ公は馬に再び鞭を入れる。正面に人影があろうと、蹴り殺すまでだ。こんな気持ちの悪い場所から、一刻も早く立ち去りたい。
「邪魔だ!」
「…………」
正面の歩兵の影が動く。彼は避けることなく、剣を横に振りかぶった。
「おりゃあああああ!」
気合と共に、カラッチ公の馬を迎え撃つ。彼の剣と馬が激突する。
次の瞬間、地面に転がっていたのはカラッチ公だった。
「なに?!」
彼が乗っていたはずの馬の首から、大量の血が流れていた。あろうことか、彼は馬の太い首を半分切り裂いたのだ。
ミュールは傷だらけの顔を見せて、カラッチ公に言う。
「邪魔はてめえだよ」
「くそっ!」
カラッチ公は逃げた。重い兜を脱ぎ捨て、道をふさぐ岩を登ろうとする。ミュールはそれを追おうとするが、クロス軍の騎士がそれを防いだ。
「閣下をお守りしろ!」
「閣下?じゃあ、てめえが総大将か!」
ミュールの剣が振り回される音を聞きながら、カラッチ公は必死に登る。新しい鎧に傷をつけながら、汗だくになって岩山を登っていく。
その彼の首元に、衝撃が走った。
「ふわっ!?」
喉まであと数センチ。矢が彼の髭を貫いて、岩に刺さっていた。
この矢を放ったのは、当然彼女である。ジャンヌはまだ動いているカラッチ公の身体を見て、顔をしかめた。
「ごめん!外した」
「でも、でかした!」
カラッチ公は、その矢に髭が
「くそっ!」
カラッチ公は自慢の髭を剣で裂いて、ようやく脱出した。そしてミュールの追跡を間一髪で逃げ、辛くも岩の向こうへと飛び越えていった。しかし向こうは足場が悪かったらしい。転げ落ちる彼の悲鳴が、岩越しに聞こえる。
ミュールは舌打ちしながら、矢に絡まったままの髭をちぎりつかむ。
「ヒゲやろう、おととい来やがれ!」
クロス軍の大敗。この戦いで、カラッチ公の名声は地に落ち、クロス王家の権威は奈落の底へと消えていった。
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