第12話『月夜の告白と約束』

 ビンスが人生を賭けた決意をしている一方で、ダヴィはぴょんぴょんと飛び跳ねる少女を相手にしていた。初めてサーカスを鑑賞したジャンヌが興奮を隠しきれずに、公演後の楽屋に押し寄せて、ダヴィを連れ出した。


 そして彼の右手を両手で握りながら、長年のファンのように褒めたたえるのだった。


「すごいや! あんたたち、面白かったよ!」


「あ、ありがとう」


 自分の出番はほんの少しである。サーカス団を褒められた時はうれしいが、その反面、居心地の悪さを感じてしまう。


 ところが彼女が特に褒めたのは、ダヴィの馬芸だった。


「馬の背の上で、片手で逆立ちするなんて!? あんた、すごかったじゃん!」


「他の団員の方がすごいよ」


「あんたも十分すごいさ! 耳の飾りもキラキラ輝いていて目立っていてさ。ホントは騎士じゃなくて、サーカス団員だったなんてね。びっくりだよ!」


 彼女のバンダナと茶色の三つ編みがはねる。ダヴィは照れて、頭をかきながら頷いた。


 この国にはサーカス団自体が少なく、遊牧民たちは定住しない彼らを軽蔑しない。ソイル国がサーカス団員を見下さなかったのは、ダヴィにとって幸いだった。


 さらに、この国では馬を器用に扱うことが誇りとされている。ジャンヌが素直にダヴィを褒めたたえるのもその点だろう。日頃の態度を一変させて、きらきらとした目を向けてくる彼女に、ダヴィは背中がこそばゆく感じた。


 そこへ、このサーカスの主役の一人が現れた。


「ダヴィ、ここにいたの」


 積み上げられた箱の影から出てきたのは、まだ黄色い舞台衣装に身を包んだトリシャであった。頭に飾られた月桂樹げっけいじゅの冠が、彼女の金色の髪によく似合う。


 ダヴィの背中に隠れていた彼女の姿を見た時、トリシャの目が鋭くなった。


「……こんな暗がりで、何をしていたのよ」


 冷たい声。しかしジャンヌは気にすることなく、あろうことか彼女の手もつかんだ。そして今度は彼女にきらきらとした目を向けた。


「最高だったよ、あんた! あんなにきれいだったんだね!」


「え、ええ?」


「歌声も澄んでいた! うちの部族であんな声で歌える人なんかいないよ! あたい、ちょっと泣いちゃったもん」


 これほどころりと態度を一変させるほど、感動したのだろうか。それは役者冥利みょうりには尽きるが、あまりの豹変ひょうへんぶりにトリシャも目を丸くする。


「ダヴィ……どういうこと?」


「そういうことだってさ」


 ダヴィは肩をすくめる。まあ、素直に喜んでいいのだろう。


 トリシャはまだ褒め続けるジャンヌの手をやさしくほどいた。


「ジャンヌ、あたしたちはこれから打ち合わせがあるから、ちょっと失礼するわね」


「ああ! 明日も見に来るからね!」


 手を振って出口へ向かった彼女の背中を見送り、2人は取り残された。あたりはすっかり暗くなっている。


「トリシャ、打ち合わせって?」


 団長が招集をかけたのだろうか。そう推測したが、彼女の答えは違っていた。


 星がまたたき始めた。


「ダヴィ、少し歩かない?」


 ――*――


 思えば、彼女と話をする時は夜が多い。幼い頃に木箱の上で語り合ったことを、ダヴィは思い出す。


 それだけ、彼らは忙しいのである。厳しい練習、綿密めんみつな打ち合わせ、そしてロミーが用意してくれた読み書きの勉強など、サーカス団の子どもの自由時間は全くなかった。


 だけど、それを苦とは思わなかった。十分な食事と寝床が用意されている。それだけでこの時代、どんなに幸せだろうか。


 そんな彼らに許された時間は、寝る前のわずかな時間だけだった。いつも二人は星の光の下で、肩を並べる。


 そして、今日も。


「ここは空気がんでいるわ。ほら、星があんなに近くに」


 トリシャが天上を指さす。暗闇に、彼女の白い指が伸びた。


 ソイル国は7大国で一番北にある。平均湿度も低い。そのため春先でも、曇りなき満天の星空を拝むことが出来る。


 風が吹いて肌寒い。ダヴィは白い息を吐きながら、火の灯るろうそくを足元に置き、隣に座る彼女に言った。


「こんなに北に来たの、初めてじゃない?」


「そうね。今まで私たちの団がソイル国に入ったこともなかったそうよ」


 いい経験になったわ、と彼女は言った。傍らに置いたろうそくの火で照らされたその顔は、満足げだった。先ほどのジャンヌの反応を見て、この国でも自分たちの芸が通用すると分かり、自信になった。同じ芸人として、ダヴィは彼女の気持ちが分かる。


 でもダヴィはもう一方で、公演を成功させた政治家としての安心感も抱いていた。すでに彼はシャルル達の世界に体を半分以上入れている。


 気が付くと、彼女の美しい瞳が彼に向いていた。彼女が口を開く。


「ねえ、ダヴィ。これからどうするの?」


「どうするって?」


「私たちのところへ、戻るつもりはない?」


 サーカス団に戻るつもりはないか。騎士をやめるつもりはないか。彼女は真剣に問いかける。


 彼は首を振った。


「戦争に行く時も話した。僕には守らないといけないものが出来たんだ。シャルル様の下で未来を作りたい。それは僕がやらないといけないことだ」


「逃げられないの?」


「逃げない。逃げたくない。僕の使命だ」


「…………」


 トリシャは大きく息を吐いた。もう彼は別の世界に旅立ってしまった。とても危険な世界に。


 彼女は彼の胸を軽くたたき始めた。何度も。何度も。


「バカ。バカ。バーカ」


「トリシャ」


「本当にバカよ。本当に……」


 そして彼女は静かに告白する。


「でも、好きよ」


 白い息と共に消えかけた言葉を、ダヴィの耳はしっかりととらえていた。でも聞き返せない。心臓の鼓動が段々と速くなる。


 その『好き』が親愛の意味でないと、なんとなく感じ取れてしまった。


 彼女は明確に尋ねる。


「ダヴィはあたしのことは好き?」


「好きだけど……」


「女として、好き?」


「…………うん。好きかも」


 トリシャは彼の両頬に手を当てて、うつむきがちな彼の顔をこちらに向けさせた。正面から彼の顔を見つめる。


「はっきり言って!」


 まるで叱られているようだ。ダヴィは慌てて告白する。


「す、好きだ!」


 言葉の勢いで、ダヴィの耳飾りが大きく震えた。トリシャは目を輝かせて、その告白を聞いた。


「…………そうなのね。ふふふ」


 彼女は頬から手を放して、立ち上がり、ふらりと一回転して踊ってみせた。彼も見たことのない笑みが、彼女の顔に表れていた。


 星空の下で輝く彼女の笑顔に、ダヴィは心を奪われる。


 浮かれ気分の彼女が言葉をもらす。


「やっぱりあたしのこと好きだったのね。ふふふ。まさかダヴィと恋人になるなんて」


「……でも、ちょっと待って」


「え?」


 彼女の表情がくもる。ダヴィの顔を一点に見つめる。


「どういうこと? どういう意味?」


「だって僕たちは修行中だし、家もないし、一緒に暮らすには色々あるじゃないか。もっと考えないと」


「一緒に……」


 気づいた。彼は自分と暮らす心配をしている。真剣に結婚まで考えてくれている。


「僕はトリシャと幸せになりたいんだ」


 彼女の目が湿る。自分の愛する人は、本気で自分を愛そうとしてくれている。


 ダヴィは立ち上がる。それぞれ違う色の彼の両目が彼女を射抜く。今度は彼女の心臓がはねた。


「トリシャ」


「……はい」


 彼は彼女の手を握った。そして顔を近づけ、彼女に誓う。


「僕が立派になったら、迎えに行く。それまで待っていてください」


「分かったわ。早く、お願いね」


 ダヴィとトリシャは微笑み、そして顔をさらに近づける。唇同士がやさしく触れ合った。


 星がまたたく。2人の秘密を知っているのは、やはり星と月だけだった。


 言葉はもういらない。お互いの視線が愛を語らい、心が解け合わさっていく。


 風が気を利かせたように、ろうそくの灯を消した。2人の重なる影が、月明かりの中でぼんやりと浮かぶ。


 この世界に、2人しかいない。そんな気がした。

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