第9話『海の匂い』
女王の指揮下に置かれたバクス族の最初の仕事は、道路建設であった。まかれた砂利をならしていたジャンヌが、空に向かって叫ぶ。
「あー! いつになったら終わるのさ!」
「文句を言わずにやれ!」
同じ仕事をしていたロレックに怒られ、しぶしぶシャベルを握り直す。彼女の緑色のバンダナが草原の風に揺れる。
そんな娘の姿にため息をつきつつ、チラリと見張りの兵士を見た。兵士は注意深く彼女の言葉を聞いていたが、やがて興味を失って目をそらした。
ロレックは安心して息を吐く。短い前髪に垂れた汗を拭く。
(人質をとられていると、ジャンヌも理解してくれないものか)
バクス族は女王に仕える以上、遊牧生活を許されず、首都への集住を命じられた。バクス族の女性陣は戸惑いながら、今日も新しい生活基盤を作っている。しかしジャンヌは「草原にいたい!」という希望から、男たちと一緒に働いているのだ。
首都で女王の監視下に置かれる。この状況は、人質をとられていることに違いなかった。変なことをすれば、どうされるか分かったものではない。ロレックは不安で夜も眠れなかった。
給料はしっかりと払われる。しかし命令には逆らえずに、労働者として働くのは、まるで
「これじゃ、奴隷じゃん!」
「こらっ! ジャンヌ!」
本音を漏らす娘に、ロレックは戦々恐々としつつ叱った。
ぶつくさ文句ばっかり言うジャンヌの傍に寄ってきた者がいた。彼女が「あっ」と声を出す。
「あの時の兵士」
「久しぶり」
彼もまた
そんな彼を見るジャンヌの目は鋭い。
(恨まれているのか)
しょうがないと思う。彼女たちを無理やり支配下に置いたのだ。感謝はおろか、親密さは感じないだろう。
彼は責任を感じていた。だからこそ、彼女たちの近況を知りたい。
「この仕事は大変かな? 首都ではいじめられていない?」
「……ふん」
彼女は顔を背けて無視した。代わりにロレックが答える。
「生活は順調です。不満はありませんよ」
「お父ちゃん! こんなぺいぺいの兵士に答える必要なんかないよ」
「しかし、なあ……」
確かに、高位の騎士がこんな道路工事を行うわけがない。彼のあどけない表情を見ると、まだだいぶ若いと推察できる。新兵といわれてもしょうがないだろう。
だがロレックの頭では、ハワードと並び立って話をしていた彼の姿を思い出していた。あの時の口ぶりは、あの戦いを指揮していた様子だった。
彼の正体がわからない。
「あの、えーと……」
「ダヴィ=イスルだ。ダヴィでいいよ」
「それではダヴィ様、あなたはどちらに所属しているのですか?」
ダヴィは少し迷ったが、正直に答えた。
「僕はウォーター国から派遣されてきた。ウォーター国第三王子のシャルル様に仕えている」
「ウォーター国? この国の方ではないのですか」
「そうなんだ。だから、身分としては微妙なんだよ」
ダヴィは肩をすくめる。ロレックは事情は分からなかったが、この国とは違う感覚を持つ人と認識した。ウォーター国では高貴な人でも労働者として働くのかもしれない。
ロレックに代わって、今度はジャンヌが彼の正体に興味を示した。
「ウォーター国って、どんな国? この国より広い?」
「この国よりは小さいかな。緑豊かな国だよ」
「でも、こんな草原はないでしょ」
「ああ。草原自体が少ないかな」
「かわいそう」
ジャンヌは誇らしそうに、両手を腰に当てて胸を張った。ニンマリと笑みを浮かべる。
「草原で生きられないなんて、つまらない生活じゃないか。この風も、草木の匂いも感じられないなんて、あたいだったら我慢できない」
冬は草木も生えず、ろくに作物を育てられない厳しい環境と思っていた草原は、彼女たちにとっては唯一無二の空間なのだろう。彼女は首から下げた飾りを見せる。
「これは草原の神様から頂いたものよ」
小さな骨が3つ横に並べられ、それをひもでくくられていた。彼女によればこれは羊の骨で、彼女たちの部族では子供が生まれると、草原の神様に羊をささげるのだという。そして白骨化した後に、その骨をお守りとするのだ。
自然のいたるところに神様がいる。それが彼女たちの宗教である。
「草原の神様に守られないなんて、やっぱりかわいそう」
彼女に見下されながら、ダヴィは素直に羨ましく思った。サーカス団に属して各地を転々としていた彼には、故郷という場所がない。一定の地域に親しみを持った経験がない。
しかし彼はその件で卑下しない。その代わり、彼は様々なところに行った経験があったからだ。
「こんなに広い草原は見たことがなかったけど、海は見たよ」
「海? なにそれ?」
「オアシスや湖に近いかな。大きさはこの草原よりも大きいけど」
「うそでしょ!」
彼女は目を丸くした。否定しようとしたが、その隣でロレックは彼の言葉を肯定する。
「見たことはないが聞いたことはある。海はこの大陸の周りに広がっていると」
「そ、そうなの……」
彼女はショックだった。この草原以上に大きいものがあるなんて、考えたこともなかった。そしてそれを父親が知っていた事実も驚いた。
自分の知らない世界がある。それを、目の前の男は知っている。
「ねえ、海ってどんなのなの?」
彼女は質問し、彼は丁寧に答える。
「魚がいっぱい住んでいることは湖と一緒なんだけど、違うのは水面はずっと揺れていて、それを波って言うんだ」
「見た目は? どんな匂いがするの?」
「うーん、ウォーター国の海は少し濃い青かな。ファルム国の海は薄い水色なんだよ。匂いは、しょっぱいかな」
「しょっぱい?」
「塩の匂いなんだ。海の水は塩辛いんだよ」
「しょっぱいんだ……」
想像がつかない。考えるたびに、彼女の好奇心がわき上がってくる。
草原の風が吹く。彼女の茶色い髪を撫でる。この風と違う匂いがする風を、彼女は知らなかった。
風に交じって、ダヴィの汗のにおいも漂ってきた。彼はオッドアイの目を風上に向け、短い黒髪をなびかせていた。金色の耳飾りがずっと揺れている。
「ねえ、あんた」
「なに?」
「あんたは海を知っているんだね」
「ああ、よく知っているよ」
ダヴィは微笑んだ。彼が海の匂いを教えてくれる。そんな気がした。
――*――
ところが彼がまず運んできたのは、2人の少女だった。
翌日、ジャンヌは自分の好奇心に突き動かされて、恐る恐る彼の部屋を訪ねた。そこでは、2人の少女が彼に抱きついていた。
「久しぶりのお兄さまですの!」
「あったかい」
幸せそうに彼の首に手を回す彼女たちとは対照的に、彼の表情は曇っていた。しかし長期間会えず、わざわざこの国までやってきたことに感謝したかったので、彼女たちの行動を止めない。
そんな様子を、ジャンヌは冷たい目で見た。プレゼントとして持ってきた羊毛のマフラーを落としかける。
「なに、それ?」
「僕の妹たちだよ」
「ちょっと異常ね」
彼女の言葉に、ルツとオリアナはムッとした。自分たちの至福の時間を邪魔してきたにも飽き足らず、口出ししてきたのだ。
二人は彼女を観察した。薄汚れたバンダナを頭に巻き、麻で出来た服は糸のほつれが目立つ。それをストレートに表現すると、こうだった。
「汚い人ですわ。お兄さまに近づかないでくださいな」
「……くさそう」
「なっ!?」
ベーと舌を出す彼女たちに、一歳だけ年上のジャンヌは体をプルプルと震わせた。ダヴィが慌てて謝ろうとする。
「あの、その、ジャン……ふぐっ!」
彼の顔が、豪速球で投げられたマフラーを受け止める。投げたジャンヌは、顔を真っ赤にしてこう叫びながら部屋を去った。
「やっぱり、あんたは敵だ! きらいだ―!!」
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