第50話『雪が降る頃 上』

 ヨハン=セルクスは焦っていた。


 戦場には北風が吹き始めており、凍える兵士たちの心に望郷の念が灯り始めている。


 そして絶え間ない国王や王族からの手紙。従軍している貴族からの問い合わせ。いずれもいつ城が落ちるのか聞いてくる内容である。見たくもない手紙が押し寄せてきて、彼の心労は計り知れない。


『数万の兵力をようして、小城さえ落とせぬとは、一体何事か』


 手紙の中にそんな文言を見つけて、思わず引きちぎった。兵力に勝るルイ王子の軍勢を破った功績は、すでに忘れ去られている。


(私とて、このような事態になるとは思わなかった!)


 まさか数か月も守り切るとは思わなかった。城内には意外と食料があったようだが、それにしても彼らの心がくじけなかったのは、全くの予想外だ。


(守将はよほど忍耐強いとみえる)


 今日も偵察に向かっていた騎士が、冷たい雨に凍えながら報告に訪れた。


「ほ、本日も捕虜を殺してきました。城内で歌う声は小さくなる一方です」


「ご苦労」


「しかし、相変わらずひどい歌ですな。本当にレオポルト様が書かれたのですか?」


「以前から腕前はそんなものだ。気にするな」


「はあ」


 その時、雨しぶきを振るい落としながら、もう一人騎士が飛び込んできた。


「申し上げます! ウォーター軍から密使が届きました」


「おお!」


 やっと根を上げたようだ。久しぶりにヨハンが灰色の髭を歪ませて笑う。


「降伏か?」


「いえ……それが、城内からではありません」


「なんだと?」


「ウォーター国からです」


 騎士は濡れないように布で包んでいた一片の手紙を差し出す。ヨハンはそれを一読して首をひねった。


「シャルル王子がレオポルトを引き渡すだと?」


 ――*――


 クロエ=リシュはとても焦っていた。


 自分の想い人が殺されそうになっている。彼の血まみれのひどい死にざまを想像するだけで、彼女は気が狂いそうになる。


 ダヴィが出陣して、そして籠城していると聞いた時から、仕事が全く手に付かない。皿は何枚割ったか覚えていないし、先輩のメイドに熱々のお茶をかけてしまった失敗もあった。そして先日、とうとうメイド長に命じられて、自宅療養という名の謹慎にされてしまった。


 それからというもの彼女の日課は、情報を持っているであろう父親・アルマの帰宅を待つだけとなる。今日も自宅前に馬車の音が聞こえ、彼女は自室から飛び出して玄関へ向かう。


「パパ!」


「おお、クロエ! 今日もかわいいな」


 デレデレ顔になる父親に対して、思春期真っただ中の彼女はイラっとする。彼女は眉間にしわを寄せ両手を腰に当てて、彼に尋問した。


「何か変化はあったの?」


 アルマは眉尻を下げて首を振った。クロエは理不尽な怒りをぶつける。他にぶつける相手がいなかったのだ。丸く束ねた黒髪が震える。


「一体いつになったら、ダヴィ様、ついでにお兄ちゃんは助かるのよ?!」


「うーん」


 小柄な彼女が怒る姿は、傍目から見ると小動物のようで可愛らしいが、その矛先となっている彼はタジタジになるしかない。手で抑えながら、言い訳する。


「まあ、待ちなさい。私もシャルル様も必死に策を考えているのだ。あのサーカス団のおかげで国内の民衆からも救助せよと声が上がってきた。もう少しで助かる」


「そう言って、一体何日経ったと思っているの! ダヴィ様たちに食料はあと少ししかないのでしょう?!」


「な、なんで知っているのだ?」


「酔っぱらったパパが話してくれたじゃない!」


「あ、う、うーむ」


 アルマは腕を組んで、自分の軽率さに考え込んでしまう。そのためか、目の前の娘の異変にしばらく気づかない。


 クロエの目からポロポロと涙が流れていた。


「ど、どうしたんだ、クロエ?!」


「早く助けてよ! ダヴィ様も、お兄ちゃんも、可哀そうだよ……」


 そうしてクロエはアルマの胸に飛び込み、彼の胸板を叩きながら嗚咽おえつをこぼした。アルマは優しく娘を抱きしめる。大きなおなかに抱きよせて、娘の気持ちに寄り添った。


「お父さんも早く助けたい。頑張っているんだ。もう少し待ってくれ」


 胸の中で、クロエは頷いた。アルマはホッとすると同時に、より責任を感じる。彼のメガネが光った。


(息子たちよ。耐え忍んでくれ)

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