第45話『地獄の外では』

 夜明けとともに、ファルム軍の本陣に一人の鎧姿の男が憤然としながらやってきた。そしてヨハンがいる天幕に着くなり、座っていた彼の机を叩いた。インク壺が机から転げ落ちる。


「セルクス公! 昨日の命令の件、説明してもらおうか!」


 ヨハンは彼を一目見ると、夜通し起きていたために乱れた灰色の髪を撫で直し、ゆっくりとインク壺を拾い直した。中身の墨はほとんど地面にこぼれてしまった。


 顔を紅潮して直立する彼に、ヨハンは静かに尋ねた。


「プラハ公、コーヒーか紅茶か」


「……なに?」


「コーヒーか、紅茶か、どちらがお好みかな?」


 毅然きぜんとした彼の態度に、プラハ公は「紅茶」と小さく答えるしかなかった。そして勧めるままに、椅子に座らされた。


 ヨハンは椅子に座り、二杯の紅茶が届くのを待って、説明を始めた。


「プラハ公。昨日は平野での大戦に引き続き、夜間の城攻めと、大変なご活躍でした」


「そういうおべっかはいらん! 昨夜の城攻めを中止させた理由を聞いているのだ。理由も伝えられず、王家の連枝れんしたるこの私に、頭ごなしに命令するなど」


 ファルム家は『黄金の七家』の中でも早い段階で国内政治体制が確立した。そのため王家はいにしえより、領国内の領主たちと政略結婚を通じて関係を深めることを最優先に取り組んだ。その結果、ファルム国内の領主でファルム家と親族でない家は無いと言ってもよく、王家との血縁の近さで政治的地位が決まる。忠誠心と実力でのし上がったヨハン=セルクスはまれなケースである。


 ヨハンにとっては、王家の権威を盾にして威張る領主に、いつも頭を痛めている。プラハ公も母が王家から出ている大領主で、この戦いでも繊細に気遣いを重ねていた。


 それでも、彼は命令せざるを得なかった。その理由をゆっくりと説明し始める。


「あの城にレオポルトが逃げ込んだと、報告がありました」


「本当か?!」


「複数の領民が証言しました」


 実のところ、これは偽報だ。正しくは『戦いの前日に、レオポルトが元修道院を訪ねた』のである。前日に作詩のために噂高い修道院を訪ねた事実を、領民たちから兵士たちが聞く間に『戦いの際に、レオポルトが逃げ込んだ』虚報に変わった。


 プラハ公は驚きつつも、先ほど以上に怒った。


「ならば余計に、あの城を攻め落とすべきだったろう。あの城には少数の兵士しかおらず、あと数時間で攻め落とせたはずだ。私にレオポルト捕縛の功績を取られないようにしたというのか?!」


「……私がやつを取り逃した件を知っておいでか」


 ヨハンは苦々しく尋ねた。プラハ公は彼の機嫌の悪さを察して、素直に首を振った。


「いや、噂には聞いていたが、詳細は知らん」


「それでは説明しましょう。あの時、私はやつが立てこもった城を攻め、3日目には城門を破り、城を落としました。ところが奴の姿はなかった」


「どういうことだ?」


「私の部下、つまり『金獅子王の角』とたたええられる我が国の騎士の一人が、攻め入った際に逃がしたのです」


 つまりは自分の部下に裏切られたのである。そんな失態を犯した彼に、プラハ公は鼻で笑った。


「要は部下の教育が出来ていなかったのではないか。私の部下は……」


「本当に裏切らないと言えますか? あなたの軍の兵士に、進歩派が入り込んでいないと、本当に言えますか?」


「…………」


「勿論、私の部下も信用できません。私は誰も信用していない。だから今、あの城を攻め落とせないのです。その二の舞は絶対に演じられない」


 プラハ公は額に手を当てて悩んだ。攻め落としても殺せないかもしれない。しかし攻め落とさないと殺せない。


「では、どうするのだ」


「あの城を包囲します。そして威圧を続け、ウォーター軍にレオポルトの身柄を引き渡させる」


 ――*――


「……そんなことを考えているのだろう。あのヨハン=セルクルという男は」


 シャルルは事前に仕入れていた情報と、密偵からもたらされたファルム軍の情報を組み合わせて、正しい予想を立てていた。


 彼が率いる別働隊は、敗走兵回収のため、国境沿いに留まっていた。アルマとモランも、無事にシャルルのもとにたどり着いている。


「シャルル様、その城に息子たちはいるのでしょうか?!」


「アルマ、それを言っては」


「いや、アルマの気持ちはよくわかる。特に、君にとってジョルジュは一人息子だ。心配だろう。……おそらく、あの城にいる可能性が高い」


 逃げてきた兵士たちが、あの城に駆け込む“耳に金の輪をつけた少年”を見たと知らせてくれた。彼はけが人を抱えていたとも聞いた。そのけが人がジョルジュかマクシミリアンか分からないが、シャルルはあの城に三人ともいる気がしてならなかった。


「シャルル様、彼らを助けますか」


「当然だ! 俺が部下を見捨てるように見えるか! ……だが、難しい」


 二万人近くの兵が取り囲む、敵国ど真ん中の城にいる。翼でもなければ、連絡すら不可能に近い。


「ファルム軍と交渉するしかない。しかし、相手が圧倒的に有利なこの状況では、交渉に応じてくれるかどうかも分からん」


「ならば、いかがしますか」


「対等な条件になるまで、タイミングを待つ。しばらくすれば雪が降る季節になるだろう。我々もここに留まり続けることはできない。政治工作でそこまで持ってくるしかない。幸いにも」


 シャルルは地面に縛られて転がる男を見下す。


「こちらには切り札がある」


 ボロボロになった服を着るレオポルトが、猿ぐつわをつけさせられ、うめきながらシャルルを睨んでいた。


 ――*――


 ウォーター国の首都・パランに敗北の一報が届いたのは、戦いからしばらく後のことである。それからまた時間が経つと、民衆も知るところとなった。


 サーカス団『虹色の奇跡』にも当然、その情報が伝わる。そして続々と帰還してくる兵士たちの中にダヴィの姿が無い。トリシャは焦りの色を深めていた。


 団長のロミーが彼女を叱りつつなぐさめる。


「あんたが焦ったってしょうがないじゃないか。待っているしかないんだよ」


「だって、だって!」


「きっとシャルル王子のところにいるんだろう。王子と一緒に帰ってくるさ。安心をし」


 彼女は不承不承にうろうろと歩き回ることをやめ、椅子に座った。近頃は舞台で妖艶ようえんさも見せる十七歳の彼女は、子供のころに戻ったように落ち着きなく、バタバタと足を動かしていた。いつもはきれいに整えている自慢の金色の長髪も、今日は乱れている。白い肌が青くなっている。


 ロミーはため息をついて、彼女にコーヒーを入れてあげようと席を立った。そこへ、ミケロが巨体を動かして駆け込んでくる。


「団長! シャルル王子から手紙です」


「ミケロ、見せて!」


「あたしが先だよ!」


 トリシャの伸ばした手をはたき、ロミーは手紙を受け取った。封を開いて読み進めるうちに、彼女の表情が曇っていく。スカーフ越しに頭をかく。


「こいつは、最悪だね」


「読ませて!」


 トリシャは彼女から手紙をひったくった。そして一言一句、目で拾うように、丹念に読み始めた。


「こら、トリシャ!」


「いいよ。もう全部読んだから。それよりも皆集めてくれないかい。すぐに」


 トリシャの顔がより蒼白になっていく。一方で、ロミーは不敵に笑った。


「あたしたちにどこまで出来るか分からないけどね。でも、やってやろうじゃないか! あたしたちでダヴィを助けるんだよ!」


 ――*――


 凍える風が吹き始めたソイル国の首都・モスシャに、この戦いの件はまだ伝わっていない。しかしこの王都の奥に君臨する女王の下には、その詳細まで伝わっていた。彼女は座りながら、傍らで直立不動で立つハワードに報告書を渡した。厚い雲に覆われた空の下、薄暗い部屋の中で、彼女は彼に話しかける。


「ダヴィが危ないらしいわ」


「ダヴィ?」


「私をめた、ウォーター国の少年よ」


「…………」


 彼の顔がかすかに動いた。それを怒りの表情と気づくのは、クスクスと笑うアンナ女王だけであろう。


「そう怒らないの。私はあの子を気に入っているのよ」


「……そうですか」


「そうよ。私の側に置きたいぐらい」


 彼女は隣で座る、白髪の男性の白い髭を撫でた。男は全く身動ぎせず、眼玉すら動かさない。ハワードは彼女に尋ねる。


「どうするのですか」


「さて、どうしようかしら」


 暗い空に雷が光り、一瞬、彼女たちの横顔を照らした。


 女王は人形のような男を撫でながら、大きな赤い目を光らせていた。

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