第38話『陽動作戦』

 本隊が陽気に行軍する一方で、別働隊のシャルル率いる五千人の軍隊は粛々しゅくしゅくと行軍していた。本隊よりも遅く出立したにも関わらず、すでにファルム国との国境にたどり着いていたのだった。


 彼らの役割はファルム国の領土を削り取ることにあるが、本質は本隊から目をそらせるための陽動役である。そのため、シャルルは本隊の遅さに気をもんでいた。


「本隊はまだファルム国に入らないのか?」


「伝令からの情報では、もう数日はかかるかと」


「予想はしていたが……あまりに遅い!」


 シャルルは天幕の中に設けられた机を叩く。羽ペンが飛び上がった。シャルルに慣れていない諸侯は、ビクリと体を震わせた。


 シャルルは一息ついて、今度は笑ってみせた。


「しょうがない。我々だけでファルム国を落としてしまおうか」


「いや! シャルル王子、それはちょっと……」


「冗談だよ」


 まともに冗談も通じない。シャルルは心底こう思った。


(ああ、ダヴィを連れて来るのだった!)


 モランやアルマでもいい。マクシミリアン、ジョルジュでもいい。会話を楽しみたい!


 側近と引き離され、フラストレーションがたまるシャルルは、自分の判断をくやんだ。周囲にはオロオロとするばかりで、恐ろしくて声をかけてくれない諸侯たちばかりがいた。額に当てた手に、金色の前髪がかかる。


 そのシャルルの気持ちを切り替えさせるのは、いつも急変する状況である。伝令が汗を垂らし息を切らしながら天幕に飛び込み、速報を告げた。


「前方に大軍あり! 旗印に『赤い獅子』を確認しました!」


「ファルム国王旗だ!」


 諸侯の一人が叫ぶ。周囲の者に動揺が広がった。駆け込んで、地面で片膝をつく伝令を諸侯が取り囲む。


 ところが、シャルルはその囲いを解かせた。長身の彼が諸侯をかき分け、そして肩で息をする彼を見て、わざと低い声で、ゆっくりと言った。


「水を」


「え?」


「彼に水を一杯、持ってきてくれ」


 騎士の一人が伝令に水を持ってきた。伝令はお椀を両手で持ち、一気にあおった。


「大丈夫か? 詳細を話してくれ」


「は、はい」


 彼は息を整え、詳細を話した。国境を越えた先の平野に、一万は超える軍勢が陣取っているという。ファルム国王旗と並んで、数々の旗が立つところを見ると、近隣領主も加わっていることが分かる。陣内でも移動が見受けられないことから、すでに陣の形成は終わっているらしい。


(やはり、時間をかけ過ぎたか)


 シャルルがもし素晴らしい教育を受けていなかったら、いら立ちのままに、ここで唾を吐いていただろう。


 彼はグッとこらえて、そして口角を上げて諸侯に宣言した。


「諸君、早々と陽動としての役割を果たしたようだ。私の手にかかれば、たとえ倍を超える敵がいようとも、赤子を相手にするようなものだ。軽々と打ち破ってみせる」


 「おお!」と感心の声が上がる。シャルルが今まで築き上げてきた戦場での名声が、その発言の信頼を作っていた。


 シャルルはパンパンと手を叩く。


「さあ、出番だ! 奴らを打ち破って、ウォーター国の旗に奴らの首を掲げようぞ!」


「おう!」


 勇んで鎧姿の男たちは駆けて行った。残ったシャルルは自分の鎧を持ってくるように命じながら、自分の発言を振り返った。


(本当に陽動が成功したのか?)


 ファルム国は強大である。一地方の領主たちといっても、集まれば一万を超える軍を形成できる。ウォーター国ならば、攻め込まれて急な対応を迫られた状況であれば、対応できる大軍を集められるのは国王か数少ない大貴族だけである。


 国王軍だけに使用が許されている国王旗が掲げられているだけで、陽動が成功したと思っているが、本当にそうだろうか。


 そして気になる点はもう一つある。相手の対応スピードである。


(国王とレオポルトが国を二分して争っていたならば、こちらに対応できないほど混乱しているはずだ。それが安定してしまったとなれば、こちらの戦略が根底から崩れる)


 秋風が天幕に吹き込んできた。バタバタと幕が動き、机に置いてあったペンが転げ落ちた。空には黒い雲が北から流れ込んでくるのが見える。


 シャルルの心の中にも、暗雲が立ち込めてきた。彼の弟のような三人の少年たちの顔が、不意に思い浮かんだ。


 嫌な予感がする。

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