第36話『兄として、姉として』

 彼の不満が爆発したのは、屋敷に帰ってきてから、ダヴィを自室に呼んだ時だった。


「戦争ごっこがしたいなら、勝手にしろ! 俺を巻き込むな!」


 シャルルは床の絨毯じゅうたんを踏み歩き、一歩ごとに不満を吐き出していた。美しい金髪が振り乱れる。


(ああ、またか)


 ダヴィは慣れたもので、彼の癇癪かんしゃくが収まるのを、紅茶を飲みながら待っている。こう見ると、どちらが年上か分からない。


 やっとのことで、ドカッと椅子に座ったシャルルに、ダヴィは質問した。


「それで、どのような布陣になったのですか」


「本隊三万はルイが率いて、ファルム国の首都へ向かう。俺は支隊五千を率いて、国境周辺の城を攻めることになった」


 ここで問題なのが、と言いながら、シャルルはガサガサと髪をかいた。


「アルマとモランが本隊の方に組み込まれたことだ!俺に功績を立てさせまいという魂胆に違いない。俺が必死に主張して、後詰にさせたが、奴らは俺に邪魔をすることしか考えていないんだ!」


「それほど、簡単な戦いなのですか?」


「そんなわけがないだろう!相手はファルム国なんだぞ! まったく……」


 シャルルはため息をつく。


 ファルム国とは、かつて金獅子王が統治していた領土を含む、大陸中央に位置する大国である。その国土の大きさから、現在の他の六大国のうち、四大国と接している。


 彼らが恐れられている理由としては、その国力の大きさから生み出される圧倒的な兵力と、各領主が伝統的に育成する重装騎兵である。万を超える騎兵は大陸最強であり、その歴史の古さから『金獅子王の角』と称されている。その軍勢がウォーター軍に立ち向かってくることは間違いない。


 本当にそのことを奴らは分かっているのだろうかと、シャルルは再びため息をついて首を振った。


「アルマとモランには負けそうなら、さっさと撤退するように言い含めたが、どうなることやら。参陣するのにも莫大な費用が掛かるというのに」


「マクシミリアンとジョルジュも本隊に参陣するのですか?」


「ああ、今回は父親たちのもとで戦うように言った。そしてだ、ダヴィ、君にも本隊に参陣してほしい。君の戦陣での目は、彼らの役に立つはずだ」


 ダヴィの身体がびくっと跳ねる。


「大丈夫か?」


 シャルルが尋ねる。先の戦いから、そう月日は経っていない。彼が負った心の傷が癒えているとは思えない。


 しかしダヴィはシャルルの目を真正面から見返した。


「ご心配ありません!僕は、前に進みます」


「そうか」


 シャルルはダヴィの頭を撫でた。この姿だけ見れば、年の離れた弟を気遣う兄のようである。ダヴィも心地よさそうにその行為を受けている。


 彼はダヴィに念を押す。


「総崩れになることを待つ必要はない。この戦いでは生還することだけを考えろ。いいな」


「はい」


 ――*――


 兄のような人に心配された後、今度は姉のような人に心配された。


 太陽が街の建物の奥に隠れ始めた頃、ろうそくをつけたテントの中にダヴィはいた。腰に手を当てたトリシャの影が、地面に映る。


「また、戦いに出るの?! あれでりたんじゃないの?」


「う、うん……」


 ダヴィはサーカス団に戻り、早速剣を磨いていると、彼女に見つかってしまった。ずかずかと彼がいるテントに入ってくると、姉らしく、早速説教してくる。


「これ以上、戦いに出るっていうなら、本当にロミーに絶縁されるわよ!」


「分かっているよ。……けどね」


 たどたどしく、ダヴィはトリシャに答える。そうは言われても、彼にも譲れないものはあるのだ。


 トリシャは長い金髪をかき上げながら、ダヴィの隣の椅子に座る。小さな白い耳が、髪の中から覗いて見えた。


 ダヴィは小さな声で反論する。


「ぼくが戦わないと」


 その言葉を、トリシャは真っ向から否定する。


「ダヴィは戦いに向いていないわよ。怖がりだし。この劇団に来た時、夜中一人でトイレに行けずに、いつも私がついていったじゃないの」


「そ、それは関係ないじゃん」


「なんでダヴィが戦わないといけないのよ。他の人に任せればいいじゃん」


「………」


 奇しくも、トーリと同じ言葉だった。ダヴィは彼を思い出して、黙る。


 トリシャは思いとどまらせようと、また口を開いた。しかし、ダヴィは苦い経験を経て、彼自身にも覚悟が出来ていた。兵士たちの前に立つ、闘う者としての覚悟である。


「二度と彼らを裏切れない。今度こそ、僕が守るんだ」


 弟と思っていた彼の決意に、トリシャは目を見張る。彼女の知らないことを彼は経験したことがよく分かった。


 自分の知らない世界。これ以上、何も言えなくなってしまった。


 彼女が知らない目を、彼はしていた。


「……もういいわよ。勝手に戦ってきなさい」


「うん。ありがとう」


 ダヴィはそっけなく言った。(こちらの気も知らないで)と、トリシャは人知れずねる。


「馬鹿ね。男って、ほんとに馬鹿」


 トリシャは立ち上がり、彼の目の前に立つと、彼の柔らかい黒髪をゆっくりと撫でる。


「止めてよ。もう子供じゃないんだ」


「子供よ。私にとっては」


 そして彼女は彼の黒い前髪を上げ、その額に唇をつけた。金色の長い髪が、ダヴィの頬をくすぐる。


 彼が彼女の髪の匂いに包まると同時に、彼女もまた彼の汗臭さを感じた。この匂いは、子供のころには嗅がなかった匂いだった。


 確かに、彼の背も伸び、彼女ともうすぐ並ぶぐらいである。


 それでも彼女は、姉として、彼を守りたかった。


「このキスはお守りよ。必ず帰ってきなさい」


「……うん。分かった」


 人生の中でも、最も苦しい戦いに向かう彼に、彼女はまた見送るしかできなかった。


 もう太陽は落ちた。秋の闇夜に、二人の影が、ろうそくの光と一緒にゆらゆらと動いている。

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