第34話『鈴の音』
日は中天を過ぎていた。
女王は午前中のウォーター国王との会談を終え、帰国の準備ができるまで、宮廷内の庭で昼食後の
シャルルは、女王たちの接待役をほぼほぼ終え、彼らの帰国を待つばかりとなった。
顔には出さないが、彼はひどく疲れていた。自分の秘密を握る女性の機嫌を損ねないように、この数日間、細心の注意を払っていたのである。それこそピエロのごとく、腹芸をこなしていた。
白髪の老人と、武装した大男に背後を守られながら、紅茶を飲む女王の前で、嘘くさい笑顔を見せて座る。彼の疲労を表すように、金色の長髪も輝きを失っていた。
(このままではダメだ。でも、奴らにボロは見つからない。さて、どうしようか……」
と悩んでいたシャルルの元に、ダヴィが姿を見せた。シャルルの表情が若干明るくなる。
「ダヴィ、どうしたんだい?」
「シャルル様、こちらを」
ダヴィが手紙を差し出す。差出人はマザールであった。シャルルはその手紙を読むと、眉をピクリと動かした。そして、フフフと笑った。
女王が興味を示す。
「あら、どのような内容なのかしら」
「他愛もないラブレターですよ。ダヴィ、こんな手紙をこの場に持ってくるんじゃない。女王陛下の馬車の準備を手伝ってきなさい」
「申し訳ありません。手伝ってきます」
ダヴィは駆け足で離れた。シャルルはそれを見届けると、給仕たちに耳打ちをして、宮廷内から人の背丈ほどもある大きな白磁の壺を持ってこさせた。
「女王陛下、こちらは王から女王への贈り物です。もう一台、馬車をご用意いたしますので、お持ち帰りください」
女王は無言の微笑みで、感謝を表した。
引かれてきた馬車の荷台に、二人の給仕たちがその壺を持ち上げようとする。ところが壺は重く、給仕たちの
「おいおい。そんなに乱暴にされては困る! それは、王からの贈り物なのだから。……しょうがないな。私が手伝おう。彼にも手助けしてもらえないか?」
シャルルは女王の後ろにいた大男を指さす。手を後ろで組んで身動き一つしないその男は、顔に真一文字についた傷をピクリと動かし、視線を女王に向けた。
「手伝ってあげなさい、ハワード」
「はっ」
シャルルとハワードは荷台へと向かい、その壺の端を持った。そして四人同時に持ち上げようと力を入れる。
その時、けたたましい馬が走る音が聞こえた。
「止まれ~!!」
必死にしがみつくダヴィを乗せたまま、馬が暴走している。その足は女王に向いていた。
ハワードは彼女を守ろうと、壺を持つ手を放そうとした。ところが、シャルルら他の三人が、彼の方に壺を押し付け、その重みで体がつぶれそうになる。
「なっ?!」
「ああ、いけない! ダヴィ、止めるんだ!」
シャルルはわざとらしい大声を出して、ダヴィに指示するが、少年は馬の首にしがみつくままである。
いよいよ、馬が近づいてきた。ウィルバードという老人は恐れおののいて逃げ出す。
ところが、女王は椅子から立ち上がろうともしない。
「女王陛下!!」
ハワードが壺を投げ落として壊した時には、もう遅かった。
女王の目の前で、馬が天高く前足を上げる。馬上のダヴィは、真下の女王の瞳の中に光るものを見た。
「あぶない!」
馬の前足が振り下ろされ、大きな音が鳴った。女王は椅子から転げ落ち、芝生の地面へ転がった。
ハワードとウィルバードは女王に駆け寄った。馬に踏まれたと思った。
ところが、馬の前足は女王のスカートギリギリに下ろされ、女王に傷ひとつなかった。そして先ほどまでの騒動が嘘のように、馬は落ち着いている。
馬上から見下ろすダヴィは、汗ひとつかかず、眼下の女王の様子を見た。彼女は自分の肩を抱いて、震えている。そして目からは涙を流していた。
ダヴィは確信する。
「女王陛下は、馬が怖いのですね」
「っ!」
彼女の身体がびくりと震えた。
それを見た次の瞬間、ダヴィは馬から引きずり降ろされ、そして首をつかまれて持ち上げられた。顔を紅潮させたハワードが、ダヴィの細い首を締めあげていた。
「貴様! 我らが女王に向かって、なにを!?」
「う、うぐっ」
「トーマス公、止められよ!」
ハワードは自分の首元に冷たいものを感じた。振り返ると、シャルルが剣先を向けていた。
「ハワード、下ろしなさい……」
女王のか細い声の指示で、彼はようやくダヴィを放した。落とされたダヴィは、地面に転がって、せき込んだ。シャルルは剣を鞘へとしまう。ウィルバードが目じりを吊り上げて、シャルルに抗議する。
「シャルル王子、この失態は国際問題ですぞ! 我々は厳重に抗議いたします」
「これはこれは、ご無礼を。申し訳ありませんでした。しかし、よろしいのですか? “遊牧民の女王”ともあろうお方が、馬が怖いと知れ渡っては」
「むう……」
ウィルバードは口をつぐんだ。これだけは、この弱点だけは知られてはいけなかったのに。
「いつ……」
「なんでしょうか?」
「いつ、分かったの? 私が馬を怖がっていることを」
まだ震えている女王が、シャルルに問いかける。彼はにこやかに、馬を給仕に渡して遠ざけたダヴィを、紹介した。
「彼が教えてくれたのです。私もこの手紙を読むまでは、知りませんでした」
シャルルは
「最初にサーカスでお会いした時、馬車から降りる際に、馬を遠ざけたのも引っかかりました。しかしハッキリと気が付いたのは、その鈴です」
ダヴィは彼女の首で光る鈴を見つめる。
「それは、馬除けの鈴でしょう。変な音がしました」
馬は人間が聞き取れる音よりも、高い音を聞くことが出来る。馬と共に生活していたダヴィには、完全に聞き取れずとも、違和感程度に感じられた。
「そう……あなたには分かったのね」
ようやく立ち上がった彼女は、ダヴィに近づく。彼女が動くたびに、芝生のごみが、赤いドレスから剥がれ落ちていく。
そして、彼女はダヴィの前に立った。涙をこぼしたばかりの赤い瞳が、光っている。
彼女はすべてを察していた。彼が彼の主人のために、自分の秘密を握ったのだと。この秘密をこの場の人間だけで共有することで、シャルル王子は、彼女よりも立場が強くなった。
無作法ながら、こちらをジッと見つめる少年。その目の色が左右違うことに、彼女は初めて気がついた。
彼女は敬意をこめて、微笑みながら挨拶する。
「私の名前はアンナ=ソイルよ。今日は楽しかったわ」
白い右手が差し出される。怒られるのを覚悟していたダヴィは、その行為にホッとして、彼女の手を握ろうとした。
ところが次の瞬間、彼女に右手をつかまれて強く引かれる。
「えっ」
あっという間に、彼女の胸の中に体が収まる。そして彼女は彼の背中に、手を回してきた。
彼女の匂いと、彼女の柔らかい体を感じる。心臓がはねる。息が止まった。
顔を赤くするダヴィの、金の輪がぶら下がる右耳に、アンナ女王は口を寄せた。
「私のことを覚えていなさい。また会いましょう、ダヴィ」
彼女のささやきが、まるで麻薬のように、頭を駆け巡る。
ダヴィが我に返ったのは、とっくに彼女たちが出発した後で、苦笑いするシャルルに肩を叩かれた時だった。最後の最後で、アンナ女王にしてやられたと感じた。
――*――
平穏な時間は過ぎるのが早い。山々が赤く染まり始めた秋口、シャルルは王の招集を受けた。
「議題はなんだ?」
「また戦争かと」
使者の回答に、シャルルは首をかしげる。自分の情報網には敵が侵攻した報告は上がってきていない。
ともすれば、攻め入るのか。この頃また太ってきたアルマに尋ねる。
「最近、王宮でなにか噂はないか?」
「はて。何も聞いていませんが……そういえば、クロエから聞いたのですが、昨日女中が何人か他の屋敷に派遣されたとか」
「どの屋敷だ」
「ネック公の屋敷です。なんでも、ファルム国からのお客様だと。そのような話は聞いていなかったのですが」
「ファルム国……だとすれば」
ファルム国と聞いて、シャルルは
「まるで疫病だな」
「はい?」
「ファルム国から入ってきた伝染病さ」
その伝染病に一番苦しめられるのは、ダヴィになるとは、この時誰も知らなかった。
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