第31話『赤い魔女』


 クシュと、ダヴィがくしゃみをした。ギリギリのところで、しぶきが客の靴を避けた。ダヴィが慌てて謝る。


「すみません! かかってはいないと思いますが」


「いや、大丈夫だよ。風邪かい?」


「違うと思いますが……とりあえず、続けます」


 ダヴィは客の靴をまた磨きだす。


 戦争から帰ってきた後、サーカスの稽古もできず、謹慎中とあってはマザールのところで勉強するのも気が引ける。居場所がない。彼はしょうがないと思いつつ、得意な靴磨きに戻っていた。


 この数年、彼は勉強と稽古の合間、気分転換の意味で靴磨きは続けていた。黙然と磨く作業が性に合っていて、そのためか、ますます腕前を上げて、この頃では固定客までついている。目の前のカラフルな服を着た騎士も、度々ダヴィを指名していた。


 タオルを無心で動かす。あの戦争で犯した罪への意識がぼやけてくる。しかし手を止めれば、すぐに思い出してしまう。ダヴィは心の内で戦い続けていた。


 そんな気持ちを知る由もないお客と、とりとめのない世間話をしながら、靴を磨く。すると、彼らの目の前に一台の馬車が止まった。


 馬車の扉が開く。そこからふわりと金髪を舞い上がらせながら飛び出してきたのは、シャルルだ。長い腕を伸ばし、ダヴィの手を引く。


「ダヴィ、ついてこい」


「えっ? ちょっと」


「おい、私の靴! って、シャルル王子?!」


 シャルルはその騎士にニヤリと笑みを見せて、強引にダヴィを馬車に乗せた。そして御者に命じて発車させる。


 後にはダヴィの靴道具と、片方の靴を磨かれないままの客が、呆然と馬車を見送っていた。


 その小さくなる姿を、ダヴィは馬車の窓から見ている。そしてシャルルの方を振り向き、少し睨んだ。彼がシャルルに会うのは、あの中庭以来である。


「悪かったよ。道具を盗られたのなら弁償する」


「お客さんも残っていました」


「彼は南のノルム公の配下の騎士だろう。大丈夫、俺の支持者だよ。後で話をすれば、分かってくれるさ」


「…………」


 そういうことではない。これでも靴磨きに誇りを持っているのだ。仕事を途中で放棄するなんて、ありえない。


 口先を尖らせ、生来のオッドアイで睨むダヴィに、シャルルは悪びれもせず笑顔を見せた。そしてやっと、彼を連れ去った理由を話した。


「ソイル国の女王が来ると聞いているな。そして、君のサーカス団を見に来る予定も」


「はい、聞いています」


「その応接役になったのは、俺だ。女王からのご指名でね。父や兄にバレずに、俺と密談をしたいというらしい」


「密談、ですか?」


「内容は分からない。しかし俺としては他国と繋がりを持つ絶好の機会だ。そこで君のサーカス団に依頼した。公演中に、内緒の話をするんだ」


 と言って、シャルルは口に人差し指を当てる。母親が平民で、有力な貴族の後ろ盾を持たない彼は、他国の王族と協力関係を持たない。それは将来、跡継ぎ争いに発展した時、他国から援助が無い。下手をすると、その隙をつかれて侵略されてしまう危険もある。彼にとって他国への外交は急務の課題だ。


 そこまで考えて、ダヴィはこの後、シャルルが自分に頼む内容を、予感した。


「君の謹慎を解く。俺と同行して、女王に一緒に会ってくれ。名目はサーカス団の案内だが、女王の人となりを君の目で判断してもらいたいんだ」


「……分かりました。ご到着は明後日ですよね」


「そうだ。父との会談と夕食会の翌日、午後から公演を観に来る。君はサーカス団で待っていればいい」


 ここで、ダヴィにある疑念が生じた。判断とはどういうことだ。


「なぜ僕が同行するのでしょうか。女王の見極めだったら、シャルル様だけでもいいのではないかとは思いますが」


「相変わらず鋭いなあ。……実はな、ダヴィ、俺は自信が無いんだ。指名してきた彼女の意図が分からない」


 ダヴィは眉を上げて驚く。そんな弱気なことを口にするシャルルの姿は、初めて見た。


「そんなにソイル国の女王様とは底知れぬ方なのですか。もしくは危険な方なのでしょうか」


「どちらも正解かもしれない。俺をはじめ、この国の者は会ったことがない。だが、噂は聞いている」


 シャルルは口角を上げた。そしてダヴィを脅かすつもりなのか、本当に怖がっているのか、声を落として言うのだった。


「彼女は『赤い魔女』と呼ばれている」


「赤い、魔女?」


 ――*――


 その頃、国境を越えて、パランへ向かう馬車があった。多くの騎馬が、その馬車を取り巻いて走る。


 馬車の中には二人、向かい合わせに座っていた


「ねえ、ウィルバード」


「はい、女王陛下」


「シャルル王子とは、どんな方かしら」


 全身真っ白な老人は、対面に座る全身真っ赤な女性を見つめた。髪や服さえも一色に統一された二人の姿は、意図的にそうしているのだろうと感じさせる。


 そして老人は長い髭を撫でながら、答える。


「その質問は何度目でしょうか。よほど、期待されていると見えます」


「ふふふ」


 森の中で、多くの鳥が鳴く。その光景は、大平原が広がるソイル国では、めったに見られない。その景色を、馬車の窓から、赤い髪をかき上げた女王が眺める。


 彼女は少し微笑んだ。彼女の赤い唇、赤い眉が動く。その笑う瞳すら赤い。


「楽しい訪問になりそうだわ」

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