第30話『北の女王の噂』


 コツ、コツ、と固い音が響く。


 夏の騒々しい空気と遮断しゃだんされた、ひんやりとした石造りの大きな屋敷の中で、二人の男がチェスに興じていた。


 厚いカーテンで、大きな長方形の窓は覆われ、天井にはシャンデリアが潜んでいる、薄暗い部屋の中で、黒と白の駒だけがちまちまと動いていた。


 白髪頭の男が髭を撫でながら、集中している一方で、若い男は足を組んであくびをしながら、相手の手を待っていた。


 白髪の男が長い時間をかけて指した手を、若い男は事もなげに駒を進ませ、短く言った。


「チェックメイト」


「いやはや、参りましたな。私ではもう、王子の相手はできません」


「当然だ。俺を、誰だと思っている」


 ルイ王子は勝ったが全く喜ばず、ジャック=ネックがもう一度駒を並べようしたが、手を振って断った。


「止めよう。お前としても、気晴らしにならん」


「これは失礼しました。会議の件は、まだご不快ですかな」


「当たり前だ! ソイル家は俺を無視して、シャルルを接待役に指名したのだぞ! こんな屈辱があってたまるか!」


 バンッと、チェス盤を叩く。しかし、そんなルイの癇癪かんしゃくをネック公は笑って流した。いつものことである。


「まあまあ、王子、そうお考えなさるな。私はソイル家がシャルル王子を御しやすいと考えるからこそ、指名したのだと思いますぞ。王子はむしろ、警戒されたのでは?」


「なに? …………考えてもみれば、その通りだ。フン、小賢こざかしいマネを」


 ルイは前のめりになっていた姿勢から、再び椅子の背もたれを寄り掛かって、得意げに腕を組んだ。茶色の短髪は、今日もきれいに整えられている。


 どのようにかんしゃく玉を爆発させようと、彼にとって最大の後ろ盾である、大貴族・ジャック=ネックに言いくるめられてしまう。これも、いつものことだ。


(他愛もない、お方だ)


 ネック公は傍らに置いていた紅茶を口に運んだ。白い口髭に、茶色のしずくがつきそうになる。


 しかし、とルイが口を開く。


「なぜソイル国の女王が来訪したのだ? 女王が国外に出ること自体、初めての事件だろう」


「よいではありませんか。大方、先日のニコール=デムの領土の件でしょう。来訪者があの野蛮なカーロス4世ではなくて、良かったではありませんか」


「馬鹿な。あの国の制度は、お前も理解しているだろう。それに、戦いにしか興味がない国王ならば、いなすのも簡単だ。ところが来訪する女王は若干十七歳で、すでに国の実権を握ったと噂されているのだぞ」


 ルイは秀才然とした面持ちで、眉間にしわを寄せて考察を重ねる。ネック公はその様子を、まるで孫を見るような目で、にこにこと見守っていた。


 ルイが盤面にあったクイーンの駒を触りながら、懸念をしめす。


「獰猛なライオンなら、どこかのサーカス団でも調教してもらえばいい。だが、やつは女狐だ。簡単に人を騙すぞ」


 ――*――


「ぶえっくしゅ!」


「うわっ! きたねえな、ミケロ!」


「す、すまん」


 ライオン使いのミケロが、くしゃみを思いっきりかけてしまったピエロのビンスに謝る。せっかく白粉を塗ったビンスの顔に、水玉模様が出来上がる。


 たまんねえな、と丁寧にふき取るビンスに、近くにいたトリシャが怒った。金色の髪には舞台用の花飾りをつけている。


「ちゃんとやりなさいよ! リハーサル中だっていうのに、時間ばかりかかってしょうがないわ」


「ちげえよ! これはミケロのせいだろ!」


「避けないのが悪いのよ」


「無茶言うな!」


 こう言い争っているビンスとトリシャだが、今ではこの二人が、このサーカス団を引っ張っていると言っても過言ではないほどの芸人になった。それぞれピエロや歌は勿論のこと、劇の役者としても早熟しつつある。ロミーやミケロたちがかける期待も大きい。


 トリシャはわざとらしくため息をつくと、みんなに聞こえるように言った。


「もうすぐソイル国の女王が、わざわざ、あたしらのショーを見に来るって言うんだから、気合入れていきなさいよ!」


「そう言ってもよお、どうせ女王だろ? そんな気合入れなくても、いいんじゃないか? 国王が来るっていうなら、話も違ってくるんだけどな」


「ビンス、知らないの?」


 トリシャは細い腰に手を当てて、ビンスの文句に眉をひそめた。


「二重円教を信仰しているソイル国ではね、国王よりも、女王の方が偉いのよ。つまりソイル国で一番偉いのは、女王なのよ」


「へえ、まるで聖子女様だ」


「実際は国王が政治をしているのだろうけど、他の国と違って、特別に偉い存在なのは確かだ」


「そうよ。だから、しっかり気合入れなさいよね!」


「へいへい」


 相変わらず、トリシャにビンスは口答えできない。恐らく、いつまで経っても変わらないだろうと、ミケロは坊主頭の強面こわもてに苦笑いを浮かべた。


「それにしても」


 トリシャは、自分よりも年若な団員に指示を出しながら、心配事を口にする。


「なんで私たちのショーを見たいと言ったのかしら。女王なんだから、自分の国に呼べばいいのに」


「いいじゃねえか。暇だったんだろ」


「そんなわけないじゃない。しかも、この依頼があのシャルル王子からだって聞いたわよ。なにか裏がありそうだわ」


「トリシャ、考え過ぎだ」


「またダヴィが巻き込まれるんじゃないかしら。心配だわ」


 ミケロを無視して、トリシャがぼそりと発した言葉に、ビンスがピクリと反応する。ダヴィ、という語句に引っかかったのだ。


 ちなみに、ここにはダヴィはいない。謹慎されておずおずとサーカス団に戻ってはきたが、ロミーから「ベッドは貸してやるけど、ショーには出させないよ」と言われてしまい、稽古にも参加できずにいる。


 この機会に、ビンスは前々から思っていた疑念を尋ねようとした。笑うピエロの化粧の中に、彼の真顔が浮かび上がる。


「なあ、トリシャ。お前はダヴィをどう思っているんだ?」


 ビンスの質問に、稽古をしていたサーカス団一同が目を向ける。


 ダヴィが帰ってきてからのトリシャの喜びようは、異常とも思えるほどだった。何回も食事を作ってあげたり、何時間もおしゃべりしたり、さらにはダヴィの身体に傷がついてないか確かめるために、風呂場で背中を流そうとした(さすがにロミーに止められた)。


 正直、ビンスは焦っていた。自分が惚れているトリシャの、この態度だけが理由ではない。


 ダヴィは戦場を経験してきた。ビンスにとって、その経験は憧れである。ダヴィの鎧姿はどうしてもカッコよく見えてしまったのだ。


 十九歳の青年が、十四歳の少年に、嫉妬する。


「どうって……弟みたいなものよ」


「ホントか? 弟にあんなことをするか?」


「する人もいるんじゃないの。それとも、なに? したらいけないの?」


「む……」


 惚れた男と、それを知っている女が、目と目と合わせる。先にそらしたのは、男の方だった。


「そんなことはないけどよ……あんまり、構いすぎるなよ。他の子たちも面倒見ろよ」


「心配されなくても、見てるわよ。ほら、稽古に戻った、戻った!」


 トリシャは元気よく背中を押す。すごすごと稽古に戻るビンスの後姿を見て、ふうと息をついた。


 その様子を、ミケロがまた苦笑いを浮かべて、見守っている。


「あんまり、からかってやるな、トリシャ」


「からかってないわよ。……まったく、いつになったら告白してくるのかしら」


「告白してきたら、受けるのか」


「その時、考えるわ」


 やれやれと言い残して、ミケロも稽古に戻る。トリシャは空を見上げて、弟分を思いやった。


「今度は大丈夫よね、ダヴィ?」

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