第16話『巣立ち』
今日のサーカス団の夜は早く終わった。
明日早朝からの移動に備えて、ほとんどの団員はすでに床についている。
その彼は団長のテントに招かれていた。ロミーは他の団員と違い、書類作業に追われていた。その隣では、ミケロが不要な資料を箱に詰めて処分している。
「すまないね。じっくり話をしたかったけど、仕事が終わらなくて。この状態でいいかい?」
「はい、大丈夫です」
机の前で立つダヴィは、筆を持つロミーの白い指を見つめていた。ランプの光に照らされて、細かく影を揺らす。それをただぼんやりと見つめていた。
ロミーが机から目を上げずに質問した。
「あの王子とはうまくやれそうかい?」
ダヴィは自信をもって答えた。
「なかよくしてもらっています。今日も『兄と思ってほしい』とまで言ってくれました」
「それはいき過ぎだと思うがね。さて……」
筆をおいて、ロミーはダヴィの目の前に来る。ミケロも手を止めた。
ロミーはダヴィの顔を見つめて語りかける。ダヴィのオッドアイが、不安げなロミーの顔を映し出した。
「あんたをあの王子に仕えさせたのは間違いじゃなかったと思うよ。この数か月で顔つきも変わってきたし。なあ、ミケロ」
「ええ。不思議と芸にも身が入ってきました」
「知識が増えると、手足も上手に動くものだよ。いい教育を受けさせてもらっていると思う。……けどね」
とロミーは立ち上がって近づき、ダヴィの両肩に手を置いた。そして顔をより近づける。
「団長?」
「あの王子には気をつけなさい」
あれだけ良くしてもらっているのに、気をつけろとは。ダヴィにはチンプンカンプンだった。ロミーはそんな気持ちも察して、ゆっくりと語りかける。
「あの王子が腰に吊るしているのは、なんだい? 剣だろ。剣っていうのは、本来、人には不要なものなんだ。他人を不幸にするものなのさ」
深い茶色い目。この時、ダヴィは初めてロミーの目を間近で見た気がした。自分の顔まで写るぐらい、近くに見た目の奥には、想像するには余りある、暗いものが潜んでいる。年少のダヴィにも感じ取れる。
「王子だけじゃない。軍事に関わる人には注意するんだよ。彼らは“人が見てはいけないもの”を見てきたのだから。あの王子がダヴィを自分の側近にするというなら、そういうことも経験させようとするに違いない。でも、軍事は凶事なんだ。そこを忘れないこと」
「ロミー……」
彼女の事情を知っているのか、ミケロが彼女の肩に手を置く。彼女は「ありがとう」と言って立ち上がった。背筋を伸ばしたころには、いつもの自信たっぷりな彼女に戻っていた。
綺麗な黒い前髪をかき上げて、ロミーはニコッと微笑んだ。
「湿っぽい話をしちまったね。要は、人を不幸にする貴族様より、人を笑わせて感動させるあたしたちの方が最高ってことだ。あんたも物事に迷ったら、人を幸せにさせる方を選ぶんだよ」
「はいっ!」
「話はこれでおしまい。あたしたちは仕事がたんまりと残っているから、あんたは他のやつとおしゃべりしてきなさい」
「他の?」
ロミーが指さした方を見ると、テントの外でもじもじとしながら、トリシャが突っ立っていた。
トリシャはダヴィの手を取ると、強引にテントの外へ引っ張っていく。ダヴィは彼女のなすがままに付いていった。
外は焚火の火も消えてすっかり暗くなった。空には大きな月と、夏の星が輝く。トリシャは誰もいないはずの荷車の陰まで来ると、木箱の上にダヴィを一緒に座らせた。
それからしばらく、二人は夜空を眺めていた。生ぬるい風が彼らの足元を流れる。足をバタバタと動かす音も
その沈黙を破ったのは、緊張感と気恥ずかしさに耐えかねて、ダヴィが口を開いた時だった。
「トリシャ、あのね」
「ダヴィ、流れた」
「えっ?」
トリシャが指さしたのは、夜空の一角、夏の大星座が横たわるところだった。その星座の真ん中を小さな光の筋が流れていく。
トリシャは手を合わせて拝んだ。そしてその光の筋があっという間に消えて頃に、彼女は口を開く。
「なにを拝んだか、聞かないの?」
「な、なにを拝んだの?」
「ないしょ」
なんだよ、それ、と言いそうになったが、トリシャの真剣な顔を見ていると、文句を言えなかった。
また、口を開いたのはトリシャだった。
「私たち、明日、行っちゃうの」
「……うん」
「さみしい?」
「さみしくない!」
「ほんとに?」
「…………さみしいかも」
まだ十歳の男の子の柔らかい髪を、トリシャは微笑みながら撫でてあげる。ダヴィは思わずホロリと涙を流した。緑の目からも、赤の目からも、青い涙が零れてくる。
それを見て、トリシャは安心して笑った。そして木箱から降りると、ダヴィに背を向けて語り始めた。
「私ね、ロミー団長から歌を教わり始めたの。ダンスだけじゃなくて、もっと多くの人を感動させられるように。いつか団長のように、客席いっぱいのお客さんをメロメロにしてあげるのだから」
トリシャが振り返る。長い金髪とスカートが舞い上がり、心地よい風がダヴィの顔を撫でた。それだけで彼の涙が止まる。
あどけない彼女の笑顔が、暗いダヴィの心に降り注ぐ。
「今日は特別、私の歌を聞かせてあげる。私の最初のお客さんよ。感動して、また泣いたらダメだからね!」
そう言うとトリシャは、覚えたての歌を歌い始めた。団長の歌とはまだまだ比べ物にならない。それでも、彼女は一生懸命に歌う。
(ぼくも頑張らないと)
ダヴィは気持ちが安らいだ。自分とトリシャは一緒だ。どこにいたって、仲間なんだ。
また流れ星が旅をする。この二人の姿は、夜空の星月しか知らない、ダヴィとトリシャだけの思い出。
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