第8話『ダヴィの小さな機転』

 再びサーカス団の出入り口に豪華な馬車が止まったのは、アルマが去って数日後だった。雨が上がったばかりの、朝日がまぶしい時刻である。


 団長のロミーは午後からの公演の準備で忙しかった。昨日までの予想以上の人の入りをみて、席の増設を進めている。客の評判が上々で、ロミーの機嫌は良かった。


 ところが馬車の来訪で水を差された形となった。ロミーは眉間にしわを寄せて、報告に来た副団長のミケロに尋ねた。


「また、あの禿げ頭かい?」


「いえ、それが……」


 言いよどむミケロをいぶかしんで、ロミー自ら入り口まで出向く。スカートを持ち上げてぬかるむ道を進んでいくと、この前見たばかりの馬車が立ち止まっていた。


 ところがその中から出てきたのは、ロミーもギョッとする人物であった。


「あんたは――」


 ――*――


 一方で団員たちは午後の公演に向けて、個々の訓練に勤しんでいる、はずだった。


「おい! このヤロウ!」


 稽古場の一角で始まった喧嘩を、皆は稽古の手を止めて眺めている。一人の男が別の男に掴みかかっていた。その姿は喧嘩というよりも、ただ一方的にいちゃもんをつけている様子である。掴みかかられている方は、戸惑いを顔全体で表現していた。


「ディーズ! てめえ、俺の女に手を出しやがって」


「だ、だしてねえよ。おめえの勘違いさ、ポルツ」


 怒っている方の男はポルツ、火吹きを得意とする道化師である。怒られている方の男はディーズ、空中ブランコなどを得意とする曲芸師だ。大柄なポルツが、細身のディーズを責め続けている。


 原因は、昨晩の酒場の出来事にある。


「俺の馴染みの女に色目を使いやがって!」


「使ってねえよ……」


「うそつくな! そうじゃなかったら、俺のエブリンはなんで『ディーズさんは今日は来ないの?』なんて言うんだよ」


「し、しらねえよ」


 この喧嘩を団員たちやじ馬が遠巻きに見ていた。その一人であるビンスのもとに、トリシャが近づいてきた。先ほどまで衣装のチェックを行っていた彼女は、新しい黄色いカチューシャを頭につけ、舞台衣装である赤と白のコルセットスカートとタイツをまとっていた。


「なんの騒ぎ?」


「ポルツの嫉妬しっとさ。いつも通りのな」


 ポルツがこの街の居酒屋の看板娘であるエブリンに惚れ込んでいるが、そのエブリンが一昨日ポルツと一緒に来たディーズに興味を示していた。それをポルツが怒っていることを、ビンスは簡潔に説明した。


 トリシャはため息をつく。つまらなそうに、金色の髪を撫でた。


「それで、どっちが悪いわけ?」


「そりゃ、ポルツが悪いさ。そもそもエブリンはポルツを相手にしていないって聞くぜ。すらっとしていて色白のディーズと、顔いっぱいに髭を生やしてまん丸い腹を叩いているポルツとじゃあ、どっちに惚れるかなんてわかりきってらあ。男の俺でも分かる」


 トリシャはビンスを見上げてにらむ。


「じゃあそう言って止めてきなさいよ。稽古場の真ん中であんなことをされたら、邪魔でしょうがないわ」


「あのポルツだぜ? 力だけなら勝てるのはミケロだけだ。止めるなら歯の2、3本は覚悟しないといけない。誰が止めるもんか」


「情けないわね。でもこれじゃあ、稽古にならないじゃないの」


 トリシャを始めとした団員たちが眉をひそめて見つめる中、トリシャよりも小柄な少年が彼らに近づいていく。ダヴィだ。


 緑色の毛皮の衣装を身にまとう彼は、顔を真っ赤にしているポルツに声をかけた。


「ポルツさん、そういえば」


「うるせぇ! ガキは引っ込んでろ」


 ポルツの気迫に負けることなく、ダヴィは一片の汚れた紙を差し出した。


「なんだよ、こりゃ」


「エブリンさんから預かった手紙」


「なんだと?!」


 ポルツはダヴィの手からその手紙をひったくって、額をこすりつけるように読み込んだ。しかし、すぐにそれを目の前のディーズに渡す。


「これ、読めるか?」


「俺も読めねえよ」


「読んであげようか」


 再び手紙を手にしたダヴィは、ゆっくりと読み上げた。


「『ポルツ様、いつも来てくれてありがとうございます。昨日はなんだか機嫌が悪かったですけど、わたし何か失礼なことをしてしまいましたか。もし怒っていなかったら、また店に来てくださいね。エブリンより』ってさ」


「おお……」


 ポルツはうやうやしく両手で手紙を受け取る。紙自体が高価なこの時代、女性から手紙を貰うのがどれだけ貴重なことか。彼はこの手紙をしばらく大事にするに違いない。


 彼は先ほどの怒りは嘘のように、高笑いを始めた。バシバシとディーズの背中を叩く。


「悪かったな、ディーズ! 俺の勘違いだったようだぜ。ダヴィ、おめえが渡すのが遅いからだぞ」


「ごめんね、ディーズさん」


「ああ……いいんだよ、ダヴィ」


 急な展開に、ディーズも周りの観衆も唖然あぜんとしている。その中でトリシャだけがクスクスと笑った。


「何がおかしいんだ?」


「ねえ、よく考えてみてよ」


 いたずらっぽく笑うトリシャの大きな瞳に、ビンスは心を弾ませた。トリシャが答える。


「居酒屋の女の子が文字を書けると思う?」


「おっ」


 この時代、識字率は一割にも満たず、庶民で読み書きができる人はごくわずかであった。学校教育を通じて国民の大半が読み書きができる状況は、大都市文化の醸成・ホワイトカラーの登場を待たなければならない。


 ビンスら団員たちの多くも文字は扱えない。同様に、居酒屋の従業員が文字を書けるとは思えない。もし書けたとすれば、もっといい仕事にありつけているはずだ。


「じゃあ、あれは」


「ダヴィの自演自作よ。あの子は読み書きできるから」


「バレたらどうするんだ。その女に会えば一発でバレるだろうに」


「バレないわよ。エブリンって人にとっては、頭がいいと思われていた方が良いし、気分がいいお客さんの機嫌をわざわざ損ねるわけがないもの。ポルツが疑ってきても流せるでしょ」


「けっ」


 ビンスはペッと唾を吐いた。ダヴィの小賢こざかしい芝居が気に入らない。


「そんなことばっかりしやがって。だからあいつの芸は伸びねえんだ」


「芸ばかりじゃないわ、このサーカス団に必要なのは。だってダヴィが収めてくれたおかげで、皆安心して稽古に戻れた」


 トリシャの言う通り、喧嘩を終えたポルツとディーズ、その他の団員は、それぞれの練習へと戻っていった。ダヴィも馬の鞍を取りに向かっている。


 トリシャは最後にこう言う。


「きれいな布だけじゃドレスは出来ないわ。縫いとめる強い糸も大事よ」


「それがダヴィだって言うのか」


「さあね」


 その時、稽古場の出入り口から呼ぶ声が聞こえた。


「ダヴィ! いるか」


 喧嘩をしていたポルツよりも大きい体格の、副団長、ライオン使いのミケロが入ってくる。ダヴィが駆け足で近づいてきた。


「なんですか、ミケロさん」


「来い。お客だ」


「ぼくの?」

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