第7話『少年の居場所』
トリシャは再びダヴィを連れて歩き出すと、団長がいるテントに近づいた。サーカス団員が宿泊するテント群の真ん中に、団長のテントがある。
その中から、怒鳴り声が聞こえる。
「しつこいね。ダメなものはダメだってさ!」
「そこをなんとか頼む、ミセス・メディス」
団長の怒号に交じって、情けない声が聞こえてくる。その声が、先ほど馬車で送ってくれた人だと、ダヴィは気が付いた。
二人はこっそりとテントの中を覗き込む。そこでは彼らの団長と、先ほどダヴィと一緒にいたアルマが口論、というよりは団長に懇願していた。眼鏡をつけた大きな顔に汗をにじませて、話し続けているが、ロミーはスカーフをつけた頭を振るだけだった。
「あんたのことよ」
「え?」
彼がロミー=メディスに何度も頼み込んでいるのは、ダヴィを引き取りたいというシャルルの願いを叶えるためだ。その拝むように頼む姿は、貴族と庶民という立場が完全に逆転していた。
「多く抱えている団員の、しかも子供一人、譲ってくれてもいいじゃないか。なにもひどいことをするというわけではない。この私が責任を持って面倒を見よう」
「何度も言いますが、『団員を譲る』ということ自体が、ありえないことです。あの子だって、うちらの大事な仲間なんだ」
「支度金として、いくらか
その言葉を聞いて、ロミーが逆上する。スカーフの下から黒髪を逆立てるかのごとく、怒鳴った。
「いい加減にするんだね! 金が欲しいからごねていると思ったら、大間違いだよ。芸人だからって、お天道様に顔向けできないことは、絶対にするもんか。私らをなめるんじゃないよ!」
彼女の
「お客様がお帰りだよ! 早く家に帰りたくなるように、丁寧に送ってやんな」
どこからともなく屈強な男たちが現れる。彼らに囲まれたアルマはなすすべなく、丸い体を縮こませて、すごすごと帰っていった。その
「サボってんじゃないよ、トリシャ!」
「げっ、バレた!」
「公演は明日なんだ。失敗したら承知しないよ。さっさと稽古にお
ダヴィとトリシャは走ってテントから離れる。そしてまた元の木箱の上に戻って座り、先ほどの出来事を振り返った。
「ダヴィ、残念だった?」
「なにが?」
「だって、貴族様のお世話になることが出来るんだよ。もしかしたら養子に欲しいのかもしれないし、今よりも絶対に良い生活が送れるはずよ」
庶民の中でも貴族に仕える人は、一番良い生活ができるのが、この時代の定説である。給料の良さなど様々な理由があるが、この時代において身分制における『貴種への尊敬』が強く根付いていたからであった。
しかしダヴィは強く首を振る。
「ぼくにはここしかないから」
その強い語気に似合わず、彼の表情は暗くなる。トリシャは空を見上げながら問いかける。白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
「まだお父さんを恨んでいるのね」
「………」
「それはそうだよね。私は顔も知らないうちに捨てられたから、何とも思わないけど」
彼の脳裏に、暗い過去が思い出される。家族に捨てられた、苦い思い出を。
夜中、トイレに起きた時、両親の部屋に明かりがともっていた。そっと、扉の隙間から覗き込む。
『子供を売るなんて、そんな馬鹿な話があるか!?』
『いいじゃないの。商売を立て直したら、すぐに買い戻せばいいでしょう。あの子なら分かってくれるはず。男の子だもの。そのぐらい役立ってもらわないと。それに、あんな呪いの子と一緒にいるなんて、嫌ですわ』
父親に迫る継母のあの目に、数年前の自分は恐怖する。この前呼んだ本の挿絵に出てきた悪い魔女と同じ目をしていた。この頃はまだ『狂気』という言葉を知らなかった。
そして父親の目からは大粒の涙がこぼれていた。テーブルを何度も叩き、
彼は理解した。自分は売られるのだと。
この時、幼い彼は食卓に並ぶ食事が貧しくなる事実などから、この家にお金がないことに薄々感づいていた。その記憶と父母の言葉が結びつく。
部屋に戻った彼は一心不乱に、一晩中、聖女像に祈った。自分のことに対してではない。自分が売られて、家族に平和に暮らしてほしかった。
『ああ、聖女さま。どうか、家族を守ってください。
泣きじゃくりながら祈り続ける姿を、妹たちが見ていた。彼は知らなかったが。
それから少年は奴隷として売られ、このサーカス団に買い取られるまで非常に辛い思いをした。環境が一変したことで強い絶望を味わった経験があった。それを二度と体験したくない。彼は今の居場所に固執していた。
「つまんないの」
トリシャは木箱にぶつけないぐらいに、バタバタと足を動かした。春にしては冷たい風が二人の間を流れる。トリシャの長い髪がなびいた。ダヴィの耳飾りも静かに揺れる。
恐らく、他の子供であったら、十年前もしくは十年後であったら、このままサーカス団の一員として一生を過ごしたかもしれない。この時のダヴィは、この運命を受け入れるつもりだったろう。
しかしながら、動き出したこの時代の世界は、彼が舞台袖から見ていることを許さなかった。遠くない未来、スポットライトが当たる表舞台へ立つ。
その使者はすぐに訪れた。
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