第5話『お誘いはほどほどに』

 ここはどこだろう、と高い天井を見上げて、ダヴィは思った。


 目を覚ませば、白い天井。こんなに綺麗で、広い天井は、見たことがない。そしてどこまでも沈んでいくベッド。薄いハンモックや板の感触がそのまま伝わるベッドに慣れている身体には、むずかゆく感じる。


 さらに、彼は新しい服に着替えさせられ、燃えた服を掴んだ手には包帯が巻かれていた。その服の柔らかい感触にも驚いてしまう。


 ダヴィは体を起こした。装飾は少ないが、石の柱や花の模様が描かれた壁がそびえ、大きな窓から温かい光が降り注ぐ。この部屋を見ただけで、大きな屋敷にいることが分かった。


 重厚な木の扉が開く。


「ああ、起きたか」


 シャルルが部屋の中に入ってきた。先ほどまでの礼服から着替えて、ゆったりとした白い絹服に変わっていた。金色の髪とよく合っている。


 彼はベッドの端に座った。肩を流れる長い髪が、ダヴィにかかるシーツにこぼれる。


「夜まで寝ていると思ったが、案外早く起きたな」


「あっ!」


 ダヴィは窓の外を見ると、太陽は中天を過ぎている。稽古に大遅刻だ。


「早く行かないと!」


 ダヴィはシーツをはねのけ、ベッドを飛び降りようとした。だが、シャルルが押し止める。


「まあまあ。もう少しゆっくりしていきな。すでに遅刻していることは変わらないだろう。後で俺が取り繕ってあげよう」


「で、でも……」


 ダヴィは泣きそうな表情を浮かべる。先ほどまで勇猛に馬を操って敵に向かったと思えない、年相応に怯える顔つきだ。シャルルはクスリと笑った。その微笑みに、ダヴィは余計に怖がる


「ぼくはわるいことしましたか……?」


「いや。むしろ感謝しないといけない」


 シャルルはダヴィの小さな手を取った。


「君のおかげで助かった。ありがとう」


「は、はい」


「君ぐらいの子どもが馬に乗れるなんて、驚いたよ」


「ぼくはサーカス団では馬で芸をするんです」


 シャルルはダヴィの手を握り続けていた。確かに、彼の手はいつも手綱を握っているせいか、ボロボロの状態だ。


 ダヴィはその手を離そうとする。


「ぼく、やっぱり行かないと」


「なあ、ダヴィ。俺の部下にならないか」


 ダヴィはきょとんとした表情になる。その顔を見て、シャルルは意図が伝わらなかったのだと思い、言い直した。


「召使いという意味じゃない。俺の近習になってほしいんだ」


「きんじゅう……」


「ゆくゆくは、俺を支える武将や閣僚になってもらいたい」


 突然こんなことを言われても、ダヴィは理解が追い付かない。なにせ今は靴磨きで、しかもサーカス団の一員なのだ。全く違う世界のことを話されても、戸惑うしかない。


 シャルルはダヴィが考えていると見て、彼の小さい手を両手で包み込む。そして端正な顔を近づけて、熱を込めて説得する。


「なあ、ダヴィ。頼む。俺には後ろ盾は少ない。貴族たちの子弟は俺に見向きもしない。一緒に成長してくれる仲間が欲しいんだ」


「なかま……」


「俺と一緒に、この国を変えないか」


 その時、部屋の扉が再び開いた。入ってきたのはアルマだった。彼は、ダヴィとシャルルの様子を見て、勘違いする。


「な、なにをなさっているのですか!」


「何って……ああ。彼にキスをしようとしているわけじゃないよ」


「…………」


 シャルルはケラケラと笑っているが、先ほどまでの熱い口調は、まるで口説かれているようだった。ダヴィは「貴族の中にはそういう趣味の人もいる」と知っていたため、彼が離れてホッと息をついた。


 アルマも胸を撫で下ろす。


「その少年、起きたのですね。安心しました」


「気絶していただけだからな。問題ないだろう」


「そんなことを言って。運んできた時に、大勢の医者を呼ぼうとしていたのは、シャルル様ではないですか」


「そうだったかな、フフフ」


 二人の掛け合いを眺めていたダヴィだったが、アルマの後ろに大きな影があることに気づいた。その影がぬっと、アルマを押しのけて入ってくる。


「失礼します」


 丸坊主に四角い顔。そしてピッチリとした黒い衣服を着ていても分かるほど、筋骨隆々な身体つきをしている。武将の模範もはんとなれる出で立ちだ。シャルルが挨拶する。


「モランか。よく来た」


「よく来た、ではありません! また危険な目に会われたとか」


「いつも通りのことだよ。それに、今回は思わぬ拾い物があった」


 モランがシャルルの視線をたどり、ダヴィの顔を見つめる。ダヴィはその鋭い視線に怯えて、首をすくめた。


「その小僧か」


 モランはベッドに近づくと、いきなりダヴィに頭を下げた。


「シャルル様を助けてもらい、感謝する」


「は、はい!」


 ダヴィの背筋が伸びる。シャルルはまたクスクスと笑った。


「こら、モラン。ダヴィが怯えているじゃないか」


「そんなことよりも、シャルル様、今回は言わしてもらいますが……」


「おっと」


 とシャルルが身構える前に、モランの説教が始まってしまった。優雅な振舞いをするシャルルとて、まだ十六歳である。大人の説教は甘んじて受けるしかない。彼はダヴィの手を離して、モランに体を向けた。


 その隙に、アルマがダヴィを手招きする。


「私が送り届けてあげよう」


 ダヴィはこっそりとベッドから降りた。シャルルは捕まえようとしたが、モランに叱られる。


「シャルル様! 聞いておられるのですか!」


「ダヴィ! まだ話があるのに」


 ダヴィはシャルルの呼びかけを無視して、アルマと一緒に部屋を出た。稽古に行かないといけない使命感が、彼の足を急がせる。


 アルマは焦るダヴィを馬車に乗せて、街の郊外へと向かった。彼はシャルルの意向を無視したわけではない。


(この少年を買ってくれば、シャルル様は喜ばれるだろう)


 そんな大人の意図を知らず、ダヴィは口を真一文字に結んで、馬車が早く着かないかと祈っていた。


 ――*――


 ダヴィ達を乗せた馬車は一路、パランの街の郊外へと進む。往来する人々が途切れてくると、今度は大きな天幕が彼らを待ち受けていた。


 簡潔に作られた入り口に門番がいた。


「あっ、止まってください! まだ開演の時間ではありません」


 その門番に止められる。しかしながら、こんな豪華な馬車に乗る貴族が来ることは初めてで、どうしていいか分からない。団長を呼んでこようか、それとも毅然と追い返したらよいのかと、オロオロと態度を決めかねている。


 ところが、この門番をもっと驚かせたのは、この馬車から降りてくる少年の姿だった。


「ダヴィ! なんだってこんな馬車に乗っているんだ? それに、その服は?」


「ごめん。色んな事があって」


 ダヴィが事情を説明しようとしたその時、落雷のような大きな声が響いた。


「この馬鹿小僧! 稽古に遅れるなんていい度胸じゃないか!」


 今、一番会いたくない人に会ってしまった。ダヴィはその大きな罵声に体を震わせて、恐る恐る声がした方を見た。


 頭にスカーフを巻いた女性が、彼のことを睨みつけていた。桜色のスカート姿で、どんどんと大股で近づいてくる彼女は、少年の後ろにある馬車の存在に気が付いた。


「なんだいなんだい、この馬車は? お前さんはいつの間に王侯貴族になっちまったんだ。それだから稽古に遅刻しても良いって言うんじゃないだろうね!」


「ち、ちがいます」


 消えそうな声で反論するダヴィ。その後ろから、やっと馬車から降りてきたアルマが、丸い腹を突き出すように腰に手を添え、えへんと咳払いをする。


「彼に罪はないのだよ。我々が野暮用で連れまわしてしまったのだ。ミセス……」


「ロミー=メディスですよ、アルマ=リシュ男爵。なるほど。この子は滅多に遅刻しないから、どんな事情があったかと思っていたんだが」


 なんで私の名前を知っているんだ。アルマは一気に警戒心を強める。


「何者だ?」


「さっき名乗ったじゃないですか。あたしゃ、ロミー=メディスって名前の」


 彼女の後ろからぞろぞろと団員たちが姿を現す。レオタード姿の者や顔に白粉を塗った者もいれば、上半身裸で鞭を持った者もいる。小さい子も含めれば、その数はかなり多い。


 彼らの先頭で、整った顔をした彼女は、ニヤリと笑って答える。


「このサーカス団『虹色の奇跡』のしがない団長でさあ」

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