第8話 世界中で、一番たいせつな女

井上清春いのうえきよはるは、ホテルのバーの明かりの中で苦笑にがわらいをした。


「どんな状況でも、彼女を他の男にられるよりはましだ」

「なんていうか…ちょっと普通じゃないけれど、大恋愛なのね」

「恋愛、なのかな。彼女と一緒に暮らしている今でも、おれの中にあるものが何なのかよくわからないよ。愛情かもしれないしただの欲情かもしれない。独占欲だけかもしれないな」

「でも大事なひとでしょう?」

「世界中で、一番たいせつな女だよ」


清春がそういうと女は目元を細めて笑った。そして短くなった煙草の火を消し、清春の口元からも短くなったマルボロを取って灰皿に押し付けた。


「あたしたち、完全に幸せでもないけれど完全に不幸せでもない。この中途半端さが良いと思わない?」


そうだね、と清春も笑った。


「ひとが望みうる幸せの上限に、近いところにいると思うよ」

「じゃあ、もう少しだけ幸せになってみるというのは悪いことかしら」

「どうだろうね」


といいながら清春は立ち上がり、女のほっそりした手をとった。


「どんなことでも、試してみるのは悪くない」

「あたし、あなたが最後の瞬間に彼女の名前を呼んでも気にしないわよ」

「そりゃやめたほうがいい。おれは一度やられたことがあるけど、せつなくて苦しくてどうにもならなくなる」


清春は女と一緒にバーを出て、エレベーターに向かった。最上階にあるバーからはもう下に降りるしかない。

やがてエレベーターがやってきてドアが開いたとき、清春は優雅に長身をひらいて女のほうをむきなおった。


「何階?」

「十一階」


清春の長い指が十一のボタンを押す。エレベーターは静かに閉まり、清春の浮気が始まった。



★★★

部屋に入ると女はてきぱきとスーツを脱ぎ始めた。そして清春を振り返って笑い


「ごめんなさい、雰囲気のない女でしょう?」

「いや、いさぎよくていい。しかしね、おれはべつにしなくてもいいんだよ」


清春はダブルルームのなかのソファに座り、女が手早くスーツを脱いでクローゼットにつるすのを見ていた。身動きの無駄のなさが清春にはこのましい。

女は清春を見て


「あたしが、したいのよ。あなたみたいなきれいな男と寝てみるなんて、そうそう経験できるものじゃないから」

「きれい、ね」


といって清春は自分の端正な顔をつるりとなでた。


「それって、男に対するほめ言葉かな」

「あたしはほめているつもりよ。今日あの研修会場であなたを初めて見たとき、ほんとうにホテルスタッフかしらって思ったわ。ホテルマンにしてはきれいすぎる」

「だからおれはこの顔が嫌いなんだ。彼女によく笑われるよ。そんな顔をしていて何が不満なのって」

「その点についちゃ、あたしも彼女さんと同意見ね。何が不満なの?」


スーツを脱いだ女が清春のすぐ横を通る。

清春は手を伸ばして女の二の腕をつかみ、そっと引き寄せた。

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