第3話 命の重み
さて、トイレから社労士事務所に電話した私だが、結果として現段階の事をお話ししよう。
現状、私は厚生障害年金の受給に必要な書類を全て社労士に委託し、その提出までを終えたところだ。
私は未だに一人で外を出歩くことが酷く困難で、特に昼間はツライ。
年金事務所へ赴くこともできないし、初診証明を取りに新幹線で行くこともできない。
病院に行くのだって物凄い労力と気力を振り絞りながら、ギリギリの状態で通っている。
だから、社労士を使って正解だったと思っているし、厚生障害年金が何級になろうと、何もしないよりはマシな結果になるだろうと思っている。
今これを読んでいる中で、障害年金を申請しようかと考えているあなたへ贈る言葉があるとしたら「使えるものは何でも使え」だ。
成功報酬型ならば成功しない限り支払いは生じない(必要とした診断書などの経費も含めて、だ)し、そもそも障害年金が取れると社労士が判断しない限り、業務は受け付けられない。彼等だって成功報酬のために働いているのだ。ボランティアでない以上、成否を見極めて仕事を受けるのは当然の事だろう。
だからこそ、社労士に電話で相談してみて欲しい。
もし受けてくれるようならば、あなたには社労士が動くに値する価値があるのだから。
その後は社労士に任せようが、自力で書類を集めて作成して提出しようが、好きにすればいい。
少なくとも私は自力では困難だったし、確実に厚生障害年金を五年前まで遡って訴追請求してでもお金が欲しかった。
借金の返済は続けているが、繰り上げ返済したとしても僅かに借金が減るだけで、やはり金利の部分がネックだ。
出来ることならまとまったお金を得て、借金を一括返済して心に余裕を持たせたい。
今こうして筆をとれているのは、薬のおかげもあるが、周期的な軽躁状態にあるからだ。
前回は双極性障害の鬱期についての主な症状を取り上げたが、今回は軽躁状態の症状を見ていこう。
・不眠(二日に一回しか寝られない、寝ても5時間程度)
・過食(吐くまで食べる)
・便秘がち
・脳内のやりたいことリストがパンクする
・衝動買い(アマゾンを見てはいけない、絶対にだ)
・異常なまでの潔癖性(部屋の隅まで片付ける、塵一つ許せない)
・過度の集中(六時間くらい休憩無しで集中してしまう)
・視覚から得られる世界の彩度が上がる
・脳内で既存のものではない音楽のようなものが鳴る
・小説の世界がこちら側へ戻ってくる
どうだろう?
鬱期とは真逆だとは思われないだろうか。
次いで言うと、私はADHDでもあるため、最後の三つはADHDの薬【コンサータ】を飲む前の私の生きてきた世界に初めからあったものだ。
二週間ほど前にコンサータの量を少し減らされた。
それ故に、私の中にある本来の世界が舞い戻ってきた、という事なのかもしれない。
私はADHDだと分かるまで三十年かかった。
子供の頃は大人しい、感情表現の薄い子供で、駄々をこねて何かを欲しがることもなかったらしい。
おままごとや集団での遊びを嫌い、一人で絵を描いていたという。
友達と遊ばない私の事を母は心配して、幼稚園の先生に伺いを立てたほどだったという。
だが、幸いにもこの先生は「一人遊びが好きな子も、それは個性ですよ」と言ってくれたのだ。
だから私は幼稚園を嫌いにはならなかったし、事実一人遊びを楽しんで卒園した。
問題は小学生の時からだ。
小学校は【型にはめた輪切りの金太郎飴】製造所の第一段階だ。
私は本をこよなく愛していたが、勉強の仕方というものを知らずに育った。
なので文章読解や作文は得意でも、算数や理科、音楽、体育は苦手だった。
勉強の仕方がわからないから授業はつまらなかった。
そしてテストの点数も勿論低かった。
その度に私は比較されたのだ、【既にいない、亡くなった兄】と。
私の兄は私が生まれるよりもずっと前に交通事故に巻き込まれて亡くなっている。
居眠り運転の車に轢かれたのだ。
八歳で亡くなった兄と私は比較され続け、私が九歳になってもまだ兄と比べられた。
いい加減にしてほしかった。
死者に生者が勝てることなんて、ほとんどない。
思い出は、美化されるからだ。
美化され続ける思い出と、私は戦わなければならなかった。
だから親に初めてねだった。
進研ゼミをやりたい、と。
親は快諾し、私はここではじめて楽しい勉強法を知った。
勉強法さえ分かればこっちのものだ。
成績は急上昇し、テストはほぼ毎回満点になった。
次に勉強が必要なのは体育だった。
だから私はバスケットボールのチームに加入した。
体を鍛え、思うように動かせるようにするためには全身運動がいい。
瞬発性、持久力、ボールのコントロール、そして戦略性。
そして私に欠けていた重要なファクターをバスケは与えてくれた。
【負けず嫌い】
雑草のようなしぶとさは、生きていく上で必要だ。
私はこの小学生の頃の選択が、今の私を作るに至った根源であると思うし、その選択を良かったと思っている。
さて、音楽についてだが、ここは割愛しておこう。
歌うことは得意になったが、演奏の才能は皆無だった、とだけ記しておこうか。
まあ追々またADHDについては語るとして、今日のタイトルでもある【命の重み】について書いていこう。
良く鬱病の症状で聞く言葉に「希死念慮」というものがある。
死にたい、自殺したい、という感情なのだろう。
これが私にあったかというと、初めはあった、というのが正しい。
だが、それはすぐに論理的倫理的戦法で理性によって排斥された。
残ったのは、死にたい、ではなく、ああこのまま死ぬのだな、という諦念だった。
飲めば吐き、食べれば吐き、吐かなかったとしても消化されていない食べ物の慣れの果てを下す。
肌はしなびて皴が出来、時には脱水症状で痙攣する。
私は生きたいと思っても、体が死にたがっているようだった。
私が希死念慮を退けた戦法について、少し書いておこうか。
もしあなたが死を望み、自ら命を絶とうと考えているとしたら、是非このことを思い出してほしい。
私達は生まれながらの大罪人なのだ、ということを。
生まれてこの方食うに困らず、生きてきた。
そんなあなたを構成しているその組織は、細胞は、多くの動植物を殺して食べたから維持できたのだ。
一粒の麦の持つ未来への可能性を私達は奪い、食し、己の命にした。
今、この時を生きる私達は、そんな大罪人の集合体なのだ。
別に菜食主義を否定するつもりはない。
だが、それでも、私達は何かの命を奪わずには生命を維持できない。そう、出来ている。
そう、私達はそうして今を生きているのだ。
それを自分の意志で殺そうとする。
実に酷い裏切りだとは思わないかね?
奪われた命に対する贖罪も無く、ただ自分が死にたいから死ぬ。
それはあなたを生かした、そのために犠牲になった命への冒涜だ。
その命の重みを、どうか考えて欲しい。
あなたは生きているのではない。
生かされているのだ。
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