第11話

若旦那はいつの間に帰ったのだろうか。

深夜の気怠さに身を任せ、凛一はしばし放心する。ほう、と溜息をつき身体を起こした。はずみに肩にかけていた着物がはらりと零れ落ちる。暗くなった部屋に灯りをともそうと燭台に手を伸ばした。月明かりが障子から透けて、青白く部屋は照らし出されてはいたが蝋燭の灯りが欲しかった。

自分を照らす、灯り。

凛一が欲しているものだ。だけれども、本当に欲しいのは蝋燭の灯りではない。本当に欲しいものは別のもので、そして、いつだって手に入らないのだ。

「…っ、」

不意に涙が零れた。熱くて、サラサラとしていて、その涙は頬を濡らした。

凛一に借金は無かったが、その代わりひびきとかなでの借金を半分肩代わりしていた。双子を種子として育てる際に凛一に課せられたノルマだ。

『ごめんなさい。…ごめんなさい。』

自らの所為じゃないのに、ひびきとかなでは泣いていた。双子の前で泣くという失態は避けられたものの、呆然としていて上手く表情が作れなかったのが悔やまれる。

『ランスロットさんに、自分で話すかい?』

川口が静かに諭すように、凛一に問うた。その時、何て返事をしたのかわからないが、川口が頷いて凛一の頭にぽんと手を乗せて撫でたので、恐らく首を縦に振ったのだろう。

いつまでも、このままではいられない。来るべき時に、ちゃんと笑顔でいられるようにしっかりしないと。

凛一は涙をふく。自身の頬を掌で叩いて、気を引き締めようとするのだった。

手紙を書こうかとも思った。だがしかし、それは彼の気持ちに対する冒とくの様な気がして憚れた。誠意には、誠意で返したい。

ランスロットの連絡先は川口しか知らない。鳥籠の金糸雀である凛一は川口に頼み、ランスロットに連絡をしてもらい見世に足を運んでもらうことにした。


その日、ランスロットはいつもと同じ柔らかい笑顔のまま見世に訪れた。川口からの言伝、凛一から話があるそうだ、と受け取ったとき嬉しく感じていた。凛一の方から求められるのは、初めてだったから。―…まだ、その時は。

見世の中庭で落ち合い、いつかのあの日のように小川の辺に腰掛けた。

「長谷さん、こんにちは。」

「…こんにちは。ランスロットさん。」

凛一はほんの少し眠そうに、笑っていた。とろりとした笑みは微睡み、今にも永久の眠りに落ちてしまいそうだった。

「もうすぐ、梅雨が明けるそうだよ。どうりで、暑いはずだね。」

「そうですか。ようやくですね。」

凛一が髪の毛を耳に掛ける仕草が美しくて、ランスロットは魅入ってしまう。このまま写真のようにこの時間を切り取ることが出来たらどんなにいいだろうと思う。

ランスロットの視線に気が付いて、凛一はふっと笑みながら小首を傾げた。

「何か?」

「…いいや。話って何だろうなって思って。」

「…。」

「言いにくいこと?」

んー…、と可愛らしく渋って見せる凛一から、まさかあんな言葉を聞くとは思っても見なかった。

「あのね。ランスロットさん、」

悪夢として、見たことはあったが。

「僕たち、別れようか。」

このまま写真のようにこの時間を切り取ることが出来たらどんなにいいだろうと思う。

「別々の道を歩もう。」

「…。」

「…ランスロットさん?」

「何故、と聞いてもいいだろうか。」

ランスロットは膝の上に腕を乗せて、祈るように口元で手を合わせた。

「身請けが決まったんです。」

「…そう、か。」

いつか、ランスロット自身が身請けを申し込もうと思っていた。だがいくら搔き集めたとて、とても今支払える金額ではない。もう、間に合わない。

「はい…。だから、この指輪はお返しします。」

するりと外される、プロミスリング。掌に握らされ、それは生物のように温かった。

「長谷さんのしあわせを望むには、確かにこれはいらないものだね。」

「…。」

「ごめんね。足枷になってしまって。」

無理矢理でもいい、笑って見せる。凛一の門出を祝いたかった。それがランスロットに残されたプライドの保ち方だった。

「しあわせになってくれ。」

凛一の手をそっと握れば、その手は細かく震えていた。その震えは感染したかのように全身を伝っていくようだった。

「…本当に、そうお思いですか。」

「ああ、」

「あなたが!」

突如、凛一が声を荒げた。驚いてその表情を伺いみると、凛一は泣くのを堪えているかのようにくしゃりと顔を歪ませた。

「…あなたがいないことが、僕のしあわせになると…本気で思っているんですか?」

「!」

「どうしようもできないことは、わかってます。だけど、僕のしあわせは…。僕の全ては、あなたにある。」

とうとう、凛一の瞳に涙が伝った。ぽろぽろと真珠のように丸く、水晶が如く太陽の光を浴びて輝いていた。ランスロットは場違いに、綺麗だなと思った。

「僕のしあわせを祈ってくれるなら、…願ってくれるなら、僕の中のあなたを消してくださ…、」

言葉を飲み込んでしまいたくて、ランスロットは無我夢中で凛一に口付けていた。途端に堰を切ったかのように溢れていくのは凛一の愛情で、それが注がれてしまうのが手に取るようにわかってしまった。凛一は苦しそうに、身をもがく。ぷは、と呼吸が苦しくなって手放すと、今度は凛一の方からランスロット抱き付いてきた。

「…っ、…!」

ドンドン、と凛一はランスロットの胸を叩く。無言の抗議はランスロットの心に届いた。

「ごめん…、凛一…っ。」

もう、いい。自分のちっぽけなプライドも。この優しくない世界も。全部。

「凛一、一緒に死のうか。」

「…え?」

「共にいられないなら、歩んでいけないなら捨ててしまえばいい。…一緒に死んではくれないか。」

凛一はビー玉のように綺麗な、涙に濡れた瞳を丸くする。

「…いい、んですか…。」

「いいも何も、こうして頼んでいるのは俺だ。」

木漏れ日の中、二人の周りの空気はしんと凪いでいた。日差しの強さで、夏が近づいているのがわかった。チリチリと肌を焼き、焦がしていく。体は汗ばみ、熱を逃がそうとする。

「笑って。」

ランスロットの手が、凛一の頬を撫でる。ずっとそばにいさせてと、指先が語る。凛一はその手をきゅっと握った。首を傾げるように甘えて、微笑んで見せる。

「…ありがとうございます。」

「身請けまで、どのぐらいの時間がある?」

「一か月…と聞いてます。」

「わかった。必ず、迎えに来るよ。待っていて。」

はい、と凛一が頷くのを確認して、ランスロットは急ぎ見世の中庭を駆けて出ていった。凛一はその背を縋るような面持ちで、見送った。

「凛一。お別れは済んだかい?」

川口が見世の自室に戻ろうとする凛一を見つけ、呼び止める。

「…はい。」

嘘を吐くことに罪悪感はあった。だけれど、こんなこと川口に話すことはできない。…違う。誰にも知られてはならないのだ。

「そうか。…本当に、すまないね。」

肩を落とす川口を見て、胸が締め付けられるようだった。これ以上一緒に居る事が出来なくて、凛一は頭を下げると足早に自室へと戻っていった。

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