第5話

「こんばんは。長谷さん。」

次の日から、ランスロットの通い路が始まった。その日の夜もまた、小雨が降っていた。傘を閉じて、雨粒を払いながら見世の正面玄関から訪れる。もう、裏口の戸からではない。

「…お待ちしていました、ランスロットさん。」

言いながら、奥座敷まで誘った。座敷では食事と酒と、そして芸事の披露が繰り広げられる。今夜の席は三日後の床入りを前提としているから一層豪華だった。ランスロットの傍らに凛一は腰を下ろして、甲斐甲斐しく世話をした。

「魚の煮つけ、美味しいね。長谷さんはもう食べた?」

「いえ、僕は結構です。」

客のご馳走は男娼たちの口には入らない。

「一口食べてごらん。まずかったら、俺が食べるから。」

「…では、一口だけ。」

遠慮し続けるのも失礼だと思い、いただきます、と魚を口に含む。ほろりと身が解けて、しょうがとみりん。醤油の味が口に広がった。仄かな柑橘系の甘みも感じられて美味だった。

「どう?」

「美味しいです。」

「ね。良かった。」

ランスロットは嬉しそうに笑う。そして、あれもこれもと凛一の皿に料理を盛り付けるのだった。まるで自分で作ったかのように、嬉しそうに凛一が食べるのを見つめていた。

「すっかり、お腹が膨れてしまいました。」

凛一は照れくさそうに笑う。

「そうだね。よく食べたね。」

食事を終えて、お茶を飲みながらランスロットと会話を楽しんでいた。二人だけの空間に、他の座敷から歌や笑い声がわずかに届いた。いつの間にか、雨は止んでいるようだった。

「長谷さん。香油の約束を覚えている?」

「香油って…、薔薇の?」

「そう。今日、持って来てみた。」

ランスロットは服の上着から、紅い小瓶を取り出して見せた。中にはサラサラとした液体が詰まっている。ポン、と音を立てて小瓶の栓を抜くと、同時に芳醇な生花のような香りが漂った。

「これが薔薇の香りなんですね。いい香り。」

「うん。温度でちょっと、香りが変わるんだ。」

掌に数滴の香油を垂らして、手を揉むように温める。そうして広げた掌からは、先ほどよりも甘さが増した香りがした。

「本当だ。こちらの方が好きかな。」

「それはよかった。長谷さん、おいで。」

「?」

凛一は小首を傾げる。

「髪の毛につけてあげる。」

ろうそくの灯りが灯る中、凛一の髪の毛に櫛を通す仕草の影が浮かびあがった。ランスロットの長い指が時折、すっと柔らかい長髪を梳く。体温で温められた薔薇の香油の香りが、部屋に満ちた。

「…。」

旋毛から首筋を添って髪の毛に触れられると、そのくすぐったさに凛一はぴくりと肩を震わせる。

「髪の毛の他にも、手や足の指先につけてもよく香るんだよ。」

「そう、なんですか。」

「今日の長谷さんもすてきだった。良い夜をありがとう。」

髪の毛を梳いた手が、ぎゅうっと凛一の身体を背後から抱いた。

「いつものすっぴんもいいけど、お化粧した姿は一層色っぽいね。」

今日の凛一はちゃんと化粧を施していた。白粉を叩き、眉を引き、目元に紅を指している。紅は一日ごとに、目元、下唇、上唇に足されていくのだ。最後の日には化粧が完成する。

「…、」

「ごめんね。いきなり抱きしめて、困らせたね。」

耳元で、ふっと笑う声が漏れて解放される。そして凛一の正面に回ると、その手を握った。

「また明日も来るよ。」

そう言うと、ランスロットは凛一の手の指先にキスを残して行くのだった。

見世を出て手を振るランスロットに、凛一も手を振り返す。ゆらゆらとゆっくりと振られる手は暗い夜に白く浮かんで見え、そして角を曲がって消えた。凛一が見世に踵を返すと、ふわりと舞った髪の毛から淡い薔薇の香りが漂った。凛一は思わず立ち止り、自身の毛先をそっと摘まんだ。甘く、優しく触れられた記憶は凛一に柔らかい感情をもたらすのだった。


二日目も、穏やかに宵が更けた。

食事を終えて、再び、ランスロットは凛一の髪の毛に香油をつける。昨日より慣れて、滑るように髪の毛を梳いた。凛一は頬を淡く染めて、俯いている。ランスロットは鼻歌交じりで上機嫌だった。さらさらと指から零れる髪の毛の感触を楽しんでいるらしい。

「…はい。終わり。」

「ありがとうございます。」

ゆっくり振り向いてランスロットを見る。その不思議な蒼い目色に魅せられて、凛一は動きを止めた。

「何だい?」

「いえ…、瞳の色がきれいだなって。」

素直に白状すると、ククク、と控えめに抑えた声で笑われる。

「長谷さんの瞳もすてきだよ。蝋燭の灯りに透けると琥珀のような色に見えるんだね。」

「そうですか?」

「ああ。よく見せてくれる。」

そう言うと、ランスロットは凛一の柔らかい顔のラインに沿って手を這わせた。凛一もその手を取って、猫のように擦り寄る。

瞳を覗き込まれる。ランスロットの瞳は中心が青くて、外に広がるほど淡い水色になっている。虹彩は黄色を帯びた優しい緑。空の色でも、植物の色でもない。恐らくまだ見たことのない海ですら、こんなに複雑な色をしていないだろう。

ふ、とランスロットが笑みを零す。凛一は僅かに首を傾げて見せる。

「美味しそうな色をしている。舐めたら甘そう。」

「!」

眼球を舐めるという倒錯的な表現に、凛一は酔いそうになった。食人は趣味ではないがランスロットならば、少しドキドキと胸が高鳴る。

「怖がらせてしまった?」

「いいえ。…いいえ。」

ゆっくりと頭を振った。それは食われる恐怖なのか、喰われることで一緒になる期待からくるものなのかはわからない。

「ランスロットさんの目色も、ハッカ飴のようですよ。」

「美味しそうに見える?」

「あい。」

「食べてみる?長谷さんなら、いいよ。」

「食べません。勿体ない。」

そんなことをしたら、もう自分を見てもらえない。刹那的な感情で失うには、それはとても愚かだと思う。

「ところで、ランスロットさん。」

「ん。なあに。」

「僕たちはいつまで、さん付けで呼び合うのでしょう。」

「んー。」

「ランスロットさんに至っては、名字呼びですし。」

実はずっと気になっていた。「長谷さん」と呼ばれるたびに、ランスロットとの距離を感じていた。だからだろうか。その距離に踏み込んでいけない気がして、凛一も名前に「さん」を付けていた。

「そうだねえ。」

ランスロットは人差し指を顎に添えて、んー、と考えているようだった。

「その時が来たら、ちゃんと名前で呼ばせて。」

―…その時って、いつ?

寂しさを感じつつも、やっぱり踏み込めなくて。

「そう、ですか。」

「怒った?」

「怒る理由がありません。」

ゆるゆると首を振りながら、いつか名前で呼ばれるときのことを思う凛一だった。


三日目の夜。

今日も今日とて、香油のお世話になっていた。髪の毛につけ終わり、手に残った香油を水桶の湯で洗い流すランスロットの仕草を凛一はじっと見つめていた。

筋の張った武骨な男の手だ。只々細く、真白い自分の手とは大違いで羨ましく思える。

「…どうしたの?」

気付くとランスロットが濡れた手をハンカチで拭いながら、凛一を見ていた。

「え、あ…、いえ。かっこいい手だなあって、思って。」

「そう?船乗りの手伝いをすることあるから、日焼けしていて乾燥しているよ。」

言いながら自分の手をまじまじと見ている。凛一はふとその手に触れたくて、触れてほしくて堪らなくなった。

「ランスロットさん…。遊びを、しませんか。」

「?」

首を傾げるランスロットに、凛一は自分の欲望を忍ばせつつ提案した。ランスロットの目の前で正座する。そして、人差し指を一本立てて見せた。

「今からじゃんけんをして勝った方が、十数える間、指一本で相手の体に触ります。先にその刺激に耐えられなくなった方が負けです。」

「おもしろそうだね。」

「じゃんけんって知ってます?」

「俺の国にも同じようなゲームがあるから、知っているよ。」

じゃんけんって万国共通なのかと変に感心する。そして、それならと気を取り直す。

「じゃあ、じゃんけん。」

「いいよー。」

「じゃーんけーん…、」

結果。凛一がチョキを出し、ランスロットがグーを出した。勝ったランスロットは嬉しそうに、凛一の前で同じく正座する。

「じゃあ、指一本触れるよ。」

「あい。」

佇まいを正して、ランスロットに向き直ったのだった。

人差し指の腹が、つ、と凛一の頬に触れた。

「三―、四―…、」

温かく、少しざらついた皮膚がくるくると絵を描くように頬を辿っていく。これぐらいならまだまだ平気―…、と思っていたら。

「九―、」

十、と数える瞬間にランスロットの人差し指が唇を撫でていった。その一秒に満たない刺激に凛一の心臓の鼓動は高鳴った。

「…平気みたいだね。」

残念と眉を下げられる。

「は、はい。じゃあ、もう一回じゃんけん…。」

ぽん、と出された手。次の勝者もランスロットだった。嬉しそうに再び、人差し指を突き出される。悔しさをにじませぬように、ぐっと背筋を伸ばして胸を張った。

ランスロットは悩み、指で耳元をくすぐった。耳朶を柔く押して、顔の輪郭に添って産毛をなぞる。淡い感覚に、肩がぞくりとした。

「体が震えたけど?」

「自己申告制です。」

そうか、とランスロットは納得したのか早々に引き下がる。遊びはまだまだ続いた。凛一が勝って、どんなふうに指一本触れてもランスロットは微動だにしない。何回目かの勝負。またランスロットが勝った。

「んー。」

ランスロットは人差し指を、ぺろ、と舐めるとそのまま凛一の首筋をなぞった。つー、と触れるか触れないかというギリギリの力加減で、肌を滑っていく。

凛一は、こくりと生唾を飲み込んだ。

首筋、鎖骨の中心から胸元へ人差し指が潜り込みそうになる瞬間。

「…ま、待って!参りました!!」

「勝ったー。」

ランスロットはふわふわと微笑んで勝利を喜んで、凛一は動悸と息切れに苦しんだ。

「ランスロットさん、手癖悪すぎです…。」

「そういうゲームでしょ?」

ね、と首を傾げて同意を求められ、凛一はぐうの音も出ない。

「ところで、勝者には何かご褒美はないの?」

わくわくしながら瞳を輝かせて、ランスロットは問う。

「ご褒美ですか…。」

凛一は頭を悩ませてそして、ちょいと手を振ってランスロットを呼んだ。ランスロットは素直に従って、四つ足で凛一の元へと近寄った。

「なあに?」

「…。」

そっとランスロットの頬に顔を寄せて、唇を僅かに押し付けた。

「!」

凛一が離れると、ランスロットは目をぱちぱちと瞬きさせて呆然と頬に手を触れた。

「…これじゃ、ダメですか?」

しまった、外した?

凛一は頬を朱に染めて、俯いた。その時、凛一の顔に影が差す。

「?」

顔を上げると、今度は逆にランスロットから頬にキスをされた。

「ありがと。すごく嬉しい。」

ちゅ、と音を立て離れる。いつか嗅いだ、香水が清々しく香った。その香りに酔っている間に、肩を抱かれる。

「ねえ。三日…、経ったね。」

「…はい。」

「お化粧がより一層、すてきだ。」

目元、下唇、上唇には紅が差されている。完成された化粧に、ランスロットは見惚れた。

「…明日、俺に抱かれてくれるかい?」

「…。」

こく、と凛一が首を縦に振って見せると、ランスロットは破顔した。そして立ち上がり、上着を着る。凛一もまた、見送りに出た。

「じゃあ、また明日。」

「はい…。」

手を握られて、握り返す。離れていく体温が名残惜しい。明日、全てが手に入るとは分かっていても。明日。明日の夜に、結ばれる。

不思議なほど、心が凪いでいた。



僕たちの情事は、とても静かだと思う。

比較対象こそないけれど、それは緩やかに始まる。

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